出羽国村山郡に勢力を張った国人領主。白鳥義久の子。通称は十郎。城取十郎とも称す。村山郡谷地城主。
白鳥氏ははじめ小田島荘白鳥郷の白鳥館に拠り、天文11年(1542)の伊達氏天文の乱に際しては伊達稙宗に味方し、永禄〜元亀年間(1558〜1572)頃に谷地に進出して谷地城を築き、ここを本拠に移しているが、これらは父・義久の事績である可能性もある。
長久は元亀年間(1570〜1572)に顕著となった最上義守・義光父子の内訌に際して義守方に与し、天正2年(1584)に義光とその弟である中野義時が対立した際には、義時陣営に与している。しかし同年9月には、義時の後ろ楯となっていた伊達輝宗と義光の和睦を仲介した。
天正5年(1577)7月に織田信長に良馬を贈って接近を図り、自らを出羽守護と称した。
天正12年(1584)6月7日、最上義光から「嫡男の義康の正室に(長久の)娘を迎えて和睦したい」とする旨の申し入れを受けて山形城に赴いたが、そこで斬殺された。
谷地城も間もなく最上勢の攻撃を受けて落城し、白鳥(谷地)領は『最上義光分限帳』によれば3万5千〜4万石の規模であったと推察される。