相馬氏第15代当主。相馬顕胤の嫡男。母は伊達稙宗の娘。通称は孫次郎。従四位下・弾正大弼。妻は伊達氏重臣・懸田義宗の娘。
天文18年(1549)、父・顕胤の死没を受けて家督を継ぐ。同年、妹を田村清顕に嫁がせて婚姻を結び、その化粧料として城の返還や標葉郡内の所領を割譲している。
伊達稙宗・晴宗父子が対立した伊達氏天文の乱に際し、相馬氏は一貫して稙宗陣営に在ったが、これに勝利した晴宗が稙宗陣営に与した懸田俊宗や、俊宗の子で盛胤には岳父にあたる懸田義宗を天文22年(1553)に誅殺すると、その一族や遺臣を領内に迎えている。
相馬氏と親しかった伊達稙宗が死去する前後より伊達晴宗との関係は悪化し、永禄7年(1564)には息子の義胤と共に名取郡で伊達晴宗と戦い、数多くの敵を討ち取った。また、永禄9年(1566)には伊達一族の亘理元宗と連携して伊達領の伊具郡に侵攻して小斎・金山城を勢力圏に治め、永禄13年(=元亀元年:1570)には丸森城をも攻略し、同年4月には伊達輝宗に叛いて逐われた中野宗時・牧野久仲父子を領内に迎えるなどしたため、伊達氏との緊張は高まった。
天正4年(1576)には伊具郡の奪回を目論む伊達勢の出兵を受け、同年10月には小斎城、翌年5月には金山・丸森城などを攻められたが、よく守って伊達勢を撃退した。その後も伊具郡を接点としてたびたび抗争するが、天正10年(1582)5月には小斎城を失い、天正12年(1584)5月に至って田村清顕らの仲介で和睦した際に金山・丸森城も伊達氏に返還している。
この間の天正6年(1578)、家督を義胤に譲った。
慶長6年(1601)10月16日に没した。享年73。