陸奥国行方郡の国人領主。相馬氏第9代。相馬胤頼の嫡男。幼名は千代王丸。陸奥国行方郡の小高に移り住んで本拠とした相馬重胤の曽孫にあたる。
貞治6:正平22年(1367)8月、父から陸奥国行方郡内の諸村を譲渡される。このときは未だ幼名を用いていて、元服していない少年であった。
応安5:文中元年(1372)から翌年9月にかけて、奥州管領の大崎詮持は陸奥国高城保内の赤沼・長田・波多谷の地を「相馬讃岐次郎」に宛行っている。この讃岐次郎とは讃岐守胤頼の子である憲胤のことと思われる。
永徳元:弘和元年(1381)、国大将石橋和義から行方郡の支配を安堵され、さらに至徳3:元中3年(1386)、陸奥国内の諸村を兵糧料所として給与された。
至徳元:弘和4年(1384)4月、相馬氏庶流の岡田鶴若丸の元服に際し、「胤久」の名を与えている。また応永元年(1394)2月には、この岡田胤久と大滝帯刀左衛門尉との相論について、自ら裁決を下して胤久の知行を安堵しており、庶子家に対する惣領家の優位性を強化していったものと思われる。
応永2年(1395)10月、譲状を作成して嫡子の胤弘に所領を譲った。しかしこの譲状に記された所領からは、未だ行方郡の一円支配は完成しておらず、強力な支配体制が布けていなかったであろうことがうかがえる。