陸奥国行方郡の国人領主。相馬氏第8代。相馬親胤の子。幼名は松鶴丸。讃岐守。陸奥国行方郡小高城主。
建武2年(1335)に祖父の重胤や父の親胤が建武政権から離脱した足利尊氏に従って出征した際、胤頼は若年のためか同道せず、伯父の相馬光胤の後見を受けて本領の陸奥国行方郡に残ったと見られる。
しかし建武3:延元元年(1336)、京都で尊氏を九州に追い落とした北畠顕家が陸奥国に帰国してくるに際し、鎌倉に留まっていた重胤は相模国で迎撃を試みるも敗死、親胤は尊氏に随行して音信不通という状況下で、国許に在って迎撃に臨む光胤から5月20日に下総国相馬郡栗野村、陸奥国行方郡耳谷村などを譲渡されるが、その直後の24日に拠城の行方郡小高城が北畠勢に攻撃されて落城、光胤は斬られ、胤頼は一族とともに山林に逃れた。
こののちに情勢が足利(北朝)方に傾き、北畠顕家が建武4:延元2年(1337)1月に拠点を陸奥国の多賀国府から伊達郡の霊山へ移した機に一族を結集して小高城を奪回し、南朝方の宇多郡熊野堂城を攻撃した。
延文3:正平13年(1358)11月、父から行方郡内の所領を譲与される。
康安元:正平16年(1361)9月に讃岐守に、翌貞治元:正平17年(1362)10月には奥州管領・大崎直持から陸奥国の東海道検断職に補任された。
貞治6:正平22年(1367)8月、嫡男の千代王丸(のちの相馬憲胤)に所領を譲った。