相馬高胤(そうま・たかたね) 1424?〜1487?

陸奥国相馬氏第12代当主。相馬重胤の嫡男。相馬胤弘の嫡孫。通称は孫次郎。治部少輔・出羽守・讃岐守。陸奥国行方郡小高城主。
父の重胤(6代当主の相馬重胤とは同名異人)は永享8年(1436)11月に胤弘より家督を譲られたとされるが、翌永享9年(1437)9月までには高胤が家督の地位に就いていたことが明らかである。
文安2年(1445)2月、牛越城・飯崎城を陥落させて牛越氏と飯崎氏を滅ぼした。
長禄4年(1460)、伊達氏や白河結城氏ら陸奥国南域の諸氏と同様に、幕府将軍・足利義政から古河公方の足利成氏追討の軍勢催促を受けているが、出陣はしなかったようである。
文明2年(1470)6月、白河郡の白川政朝と一揆契約を結ぶ。この一揆契約は高胤の「年来の念願」であったといい、高胤が強い懸念事項を抱えていたことが窺えるが、詳細は不詳である。
また、この一揆契約を結ぶ以前に名を高胤から隆胤へと改めている。
高胤はこの頃より標葉郡への進出を目論んでいたようで、文明3年(1471)には標葉氏の一族や被官の調略を行っていたことが窺える。
長享元年(1487)、高胤は標葉氏惣領の標葉清隆が築いた拠点の権現堂城を攻めたが、陣中で没したという。高胤の没年については明応元年(1492)ともされるが、明応8年(1499)8月までは生存していたことが窺われる史料もあり、不詳と言わざるを得ない。