陸奥国行方郡の国人領主。相馬氏第10代。相馬憲胤の嫡男。讃岐守。
応永2年(1395)10月、父の憲胤より所領を譲られた。
応永17年(1410)2月、海道5郡(岩崎・岩城・楢葉・標葉・行方)に本拠を持つ岩城・白土・好島・諸根・相馬・楢葉・標葉ら10氏が一揆(海道五郡一揆)を結んだ。この相馬とは胤弘のことと思われるが、胤弘に関する同時代史料は確認できず、胤弘の発給文書も見受けられないことから花押による確認はできない。また、父の憲胤は生没年不詳であるが、活動年代から見てこの年に存命であっても不自然ではなく、憲胤の可能性も残る。
応永5年(1398)11月から永享5年(1433)閏7月にかけて、小高の妙見社への大般若経奉納事業を行った。
応永23年(1416)に関東で勃発した上杉禅秀の乱に際しては、明確な記録はないものの、「海道四郡の者ども」として篠川公方の足利満直に属し、当初は禅秀に、のちには幕府方(足利持氏方)に加担したようである。
正長元年(1428)6月、鎌倉時代には相馬氏領であったが、新田岩松氏に所有権が移っていた行方郡千倉荘を、岩松義時の死没とともに入手している。この千倉荘は、のちに行方郡北郷と称されるようになる。その後間もなく、千倉荘と隣接する宇多荘との境界をめぐって白川氏朝と抗争するようになった。
永享8年(1436)、所領を子の重胤(6代当主の重胤とは同名異人)に譲った。しかしこれを示す譲状などの史料は見られず、同年霜月(11月)付の「目々沢道弘所領預状」と称される文書からの推測である。
しかしこの重胤は病気がちであったといい、相馬氏家督は短期間のうちに重胤の子・高胤(隆胤)に譲られている。