出羽国の国人領主。天童頼貞の子。母は伊達氏重臣・国分盛氏の娘。名を頼久とも。妻は出羽国小国城主・細川直元の娘。出羽国村山郡天童舞鶴城主。弟の頼景は東根城に拠って東根氏を称す。
頼澄の姉は最上義光の側室となっている。
天童氏は最上氏2代・最上直家の二男である頼直を祖とする最上氏の庶流。建武3:延元元年(1336)頃に北畠親房の子孫と称する北畠天童丸という者が城を天童城を築いて拠ったが、応安7:文中3年(1374)に陸奥国浪岡に去ったのちに頼直が舞鶴山に居を構え、地名を名字の地としたのが天童氏の始まりと伝わる。
頼久はその10代。母が伊達氏重臣・国分盛氏の娘で、盛氏の妻が伊達稙宗の娘であったことから伊達氏と極めて近い関係にあり、天正2年(1574)、最上義光・中野義時兄弟が最上氏家督をめぐって対立した際には父・頼貞と共に義時方に与しているが、同じく義時方として介入した伊達輝宗が義光と和睦すると、天童氏も義光と和睦した。
天正5年(1577)3月に義光から舞鶴城を攻められたが、弟・東根頼景や最上八楯主の延沢満延・楯岡満英らの支援を得てよく支えた。しかし天正8年(1580)頃に延沢満延が義光と和睦したのちより東根城・楯岡城・成生館・飯田館・六田館といった友軍勢力が相次いで陥落、あるいは義光に降ったために孤立し、天正12年(1584)の秋(異説あり)に再び義光の攻撃を受けて落城したが、頼澄は城から落ち延びて母の実家である国分氏のもとに逃れ、のち伊達氏の家臣になったという。
生没年とも不詳であるが、落城の際に草苅孫九郎という者が頼澄の身代わりとなり、「天童甲斐守頼澄生年20歳」と名乗りをあげて討死している。