富樫政親(とがし・まさちか) 1455〜1488

加賀北半国守護・富樫成春の子。幼名は鶴童丸。通称は二郎。富樫介と称す。
政親の父・成春は文安4年(1447)5月以来、加賀北半国の守護職の地位にあったが、長禄2年(1458)8月に将軍・足利義政が加賀北半国の守護職を赤松政則に与えたために亡命したといい、政親は白山宮支配下の山内荘に居していたとされる。
寛正5年(1464)、父と守護職を争っていた加賀南半国守護・富樫泰高よりその職を譲られるが、応仁の乱が勃発すると反政親勢力が弟・幸千代を擁立して政親に敵対することとなり、政親は東軍、幸千代は西軍に属して戦った。
文明5年(1473)の山内合戦に敗れ、一時は加賀国を逐われて越前国の朝倉敏景を頼ったが、文明6年(1474)7月頃より本願寺門徒(一向一揆)と結び、さらには白山衆徒の支援をも得た。一方の幸千代は真宗高田派の専修寺門徒から援助を受けていたが、同年10月14日には幸千代勢の拠る蓮台寺城を陥落させて逐い、富樫氏の統一を果たした。
しかしこの抗争の中で勢力を拡大した一向一揆と対立、文明7年(1475)3月にはこれと戦って撃破した。このため当時越前国吉崎にいた本願寺法主・蓮如は畿内へと退去している。
長享元年(1487)9月、将軍・足利義尚の命を受けて六角高頼征伐(鈎の陣)に出征したが、その留守中に加賀国で一向一揆の動きが活発になると、これに対処するため12月に帰国し、防衛の拠点として高尾城の修築を急いだ。
これに対して一揆方は和議を申し入れたが、政親はこれに応じなかったために完全な手切れとなった。翌長享2年(1488)より蜂起した20万もの一揆勢によって加賀国を封鎖されて隣国からの支援を絶たれると5月には高尾城に追い込められ、この攻撃を支えきれずに6月9日に高尾城は落城、政親は自刃した(高尾城の戦い)。享年34。
この守護・富樫氏の滅亡によって加賀国は以後の約100年に亘って一揆の自治による共和国、いわゆる『一揆の持ちたる国』となる。