加賀守護の富樫氏では嘉吉元年(1441)の嘉吉の変を契機として富樫教家・泰高兄弟が守護職をめぐって争うようになった。この内訌は幕府中枢の細川氏と畠山氏の政争とも連動しつつ続けられたが、文安4年(1447)5月に教家の子・成春が加賀北半国の守護に、泰高が南半国の守護に任じられることで沈静化が図られ、長禄2年(1458)8月に赤松政則が加賀北半国守護に任じられると成春はその職を失うも、寛正5年(1464)8月に泰高が成春の子・政親に南半国守護職を譲ることで内訌が収束した。
しかし応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、東軍方についた政親に対し、反政親派は政親の弟・幸千代を擁立して西軍に与したため、再び内訌が起こる。
政親はこの抗争において本願寺門徒、すなわち一向一揆に協力を求め、文明6年(1474)10月の蓮台寺城の戦いで幸千代を破って守護権を掌握。それと同時に、一向一揆の勢力も加賀国において強大化することになったのである。
一向一揆の助力を得て加賀国を掌握した政親であったが、その強大さや爆発力に危惧を抱き、戦力としての一揆の中核を成す農民もまた、相次ぐ戦陣による食糧や人夫の徴発に不満を募らせ、両者の反目が次第に深まっていったことは想像に難くない。長享元年(1487)9月、政親が将軍・足利義尚の命を受けて六角高頼征伐(鈎の陣)に出陣したとき、政親は義尚に加賀国の情勢を報告し、本願寺門徒討滅への協力を要請している。
義尚の承諾を得てその年のうちに帰国した政親は、高尾城の修築を急ぐ。その様子を見た本願寺門徒は富樫氏重臣の山川氏を通じて和睦を申し入れたが、受け入れられなかったという。ここに両者は決裂した。
抗戦の意志を固めた一揆勢は政親と対決すべく檄を飛ばし、翌長享2年(1488)の春より周辺国からの援軍に対抗する備えを固めるとともに、総大将として前守護の富樫泰高を擁立した。
一方の政親も、野々市の居館から修築成った高尾城に移り、幕府に急使を派遣して支援を要請している。これを受けて越前国の朝倉氏、能登国の畠山氏、越中国の神保・遊佐・椎名氏らに出陣命令が下されているが、同年1月には朝倉氏からの援軍を迎えるために発向した富樫方2千の軍勢が加賀・越前国境付近で一揆勢によって殲滅させられたとする記録もあることから、一揆による加賀国封鎖は迅速かつ厳重なものであったことが窺い知れる。
外部からの支援を絶たれた政親は高尾城に追い込められ、5月下旬頃には20万もの一揆軍によって完全に包囲されるに至った。
戦闘が開始されたのは6月5日で、約1万の軍勢で籠城していた政親方は、活路を切り開くために7日に高尾城から一斉に打って出て戦ったが衆寡敵せず敗れ、9日に高尾城への総攻撃を受けて支えきれず、政親は城に火を放って自刃した。
この富樫氏の滅亡によって加賀国には守護大名がいなくなり、代わって一揆を指導した僧官や地侍、農民門徒の代表らの合議によって統治する、いわゆる『百姓持ちの国』とか『門徒持ちの国』と呼ばれる、門徒や農民たちの共和国が樹立されることになったのである。