天正2年(1574)1月下旬、越後国の上杉謙信は北関東での残り少ない与同勢力や拠点を救援するため関東に向けて出陣したが、相模国小田原を本拠とする北条氏に味方する勢力に翻弄され、利根川を越えることなく5月下旬に帰国した(越山:その12)。
天正2年(1574)7月下旬、北条氏照の軍勢が上杉氏の拠点・上野国厩橋に向かっているとの注進を受けた上杉謙信は、26日に先遣隊を沼田に派遣し、自身も8月初旬に出陣した。
上杉軍はまず北条方の由良成繁の領内を攻撃した。上杉方としては、維持できている勢力圏が上野国の沼田から厩橋まででは、武蔵国の友軍である羽生城や下野国方面、年初より北条方より圧迫を受けている下総国の関宿城救援などへの進軍が難しいため、東上野の桐生や館林、つまりは由良氏領の制圧が急務であった。
一方の由良氏でもそれは承知しており、先の北条氏照の出陣は成繁の要請によるものだったといい、上杉方の勢力圏を越後国方面へと押し戻したいという思惑があったのだろう。
上杉軍は10月中旬に桐生の谷山・猿窪の砦を攻略したのち、11月7日には利根川を越えて武蔵国へと進んで鉢形・忍・松山を攻撃。そのまま関宿へと向かうかと思われたが、深谷城主の上杉憲盛から北条勢は撤退したとの報せを受けたため、軍を返して再び利根川を渡って上野国へと戻り、新田辺りで由良領の攻撃を再開した。
ところが関宿城主の簗田晴助から、北条勢は未だ退散せず関宿を攻囲しているとの報せを受けた。憲盛はこの前年頃には北条氏の圧迫を受けて降っており、虚偽の情報だったのである。
憲盛にだまされたことを知った謙信は新田・館林・足利を放火したのち再び軍勢を転じ、下野国只木(多田木)山を経て22日に沼尻に着陣した。
23日に小山城主の小山秀綱と簗田晴助を招いて談合するとともに反北条氏連合の雄・佐竹義重の参陣を求め、その後に下野国小山に陣を進めた。そして義重到着後の30日に小山で謙信と義重は北条軍への対応について協議したが、意見が合わずに決裂し、結果として関宿城については義重に一任して謙信は関宿からの撤兵あるいは帰国することを決め、古河城(下総国)・栗橋城(武蔵国)・館林城(上野国)を攻めつつ通過し、再び利根川を越えて武蔵国の騎西・菖蒲・岩付を放火した。
上杉軍は閏11月18日に武蔵国羽生城に着城したが、謙信はこの城を破却することを決めた。この城は上杉方の友軍で、上野・下野・武蔵・下総国が接する国境に近く位置する戦略上の要衝であったが、周辺に味方がなく滅亡が目に見えている、というのがその理由であったという。そして羽生在城衆を率いた上杉軍は、同月19日に上野国厩橋城に帰着したのであった。
この間の閏11月10日には下総国の結城晴朝が北条氏の圧力に耐えかねてのことか、上杉氏と絶って北条氏に降り、関宿城も同月16日に開城を決め、19日に北条氏に接収された。簗田晴助・持助父子は支城の水海城に退去したが、この時に簗田氏が擁立していた足利藤政(古河公方・足利義氏の異母兄)が自殺させられたという(関宿城の戦い:その3)。
また、関宿城が開城を決めたことで支援の名目を失った佐竹義重・宇都宮広綱は、北条氏と和議を結んで撤退した。
謙信はその後間もなくして越後に帰国したようだが、この遠征の失敗によって友軍や拠点を失い、勢力圏も上野国の厩橋にまで後退することとなったのである。