永禄13年(=元亀元年:1570)3月、豊後国の大友宗麟は肥前国の龍造寺隆信を征討するため、大軍を率いて出陣した。自らは隆信の居城・肥前国佐嘉郡佐嘉(佐賀)城から7里ほどの距離を隔てた筑後国の高良山を本陣とし、宗麟の命を受けた立花道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速らは3月27日に3万ほどの軍勢とともに肥前国へ進撃。これに島原半島の有馬氏や、隆信と敵対する国人領主らをも加えて佐嘉城を遠巻きに包囲したが、佐嘉城兵の士気も高く、8月になっても未だ落とせずにいたのである(佐嘉城の戦い:その2)。
圧倒的な兵数と布陣を擁しながらも佐嘉城を攻略できないでいることに憤慨した宗麟は、一族の大友八郎親貞に3千の兵をつけて佐嘉城攻めに向かわせた。この親貞は、宗麟の弟とも甥ともいわれるが、その出自は詳らかでない。
親貞の軍勢は8月17日に佐嘉郡に入るとその日の夕刻に今山に着し、佐嘉城北方の赤坂山を本陣に据えた。佐嘉城攻撃の日は20日と決まっていたようだ。
一方、寄せ手に新手の軍勢が参陣したとの報を得た龍造寺氏の武将・成松信勝は18日の夜に忍びを放って敵情を探り、親貞は無勢の龍造寺軍を侮って油断していることを知り、また、鍋島直茂も19日に自ら斥候に出るなどして情勢を確かめ、「敵勢は日ごとに増えており、まさに今が決断の時である。なまじ城中で戦っては勝ち目はなく、今夜、今山の陣を夜襲して勝敗を一挙に決すべし」との見解のもとに、この日に設けられた軍議で信勝とともに決死の夜討ちを強く提唱した。この案を否定する意見もあったが、隆信の母・慶ァ尼の「城中の者は皆が敵の猛勢に呑まれて猫に遭遇した鼠のようだが、今夜敵陣に斬りかかって死生二つの勝負を決することこそが男子の本懐ではないか」との檄によって夜襲敢行が決まったといわれる。隆信もこれに賛同し、夜襲隊の大将には直茂が任じられた。
この夜、直茂はわずかな手勢を率いて出立したが、行軍の途中で成松信勝・百武賢兼ら数十人の将士や郷士・村民などまでもが加わり、3百ほどの兵力になったとみられる。
そして20日未明(早朝とも)、直茂の放った合図とともに鬨をつくり、今山本陣への決死の奇襲が敢行された。軍記の類では親貞はこの前夜に酒盛りをしていたともされているが、親貞軍は既に戦勝気分が高揚しており、警戒もまったくされていなかったところに加えて納富信景が率いる別働隊も同時に攻撃したために大混乱に陥り、脆くも崩れた。この中から敗走しようとする親貞を、成松信勝が討ち取ったのである。
親貞討死の報が知れると親貞軍は総崩れとなり、さらに加勢も加わった龍造寺勢が追討したため形勢は一気に決した。この戦いで龍造寺勢は大友勢2千余を討ち取ったという。
局地戦ではあったが、この今山の合戦に大勝したことで龍造寺方は勢いに乗り、翌21日には多久梶峰城を収め、23日には佐嘉城下の高尾(高峰)口での合戦にも勝利した。
9月に入ると和議の話がもちあがり、筑後国の田尻鑑種の仲介によって10月1日に和議が成立したことを受け、大友方は撤兵したのである。