伊達氏の重臣・中野宗時は、天文11年(1542)からの伊達氏天文の乱においては子の牧野久仲(宗仲)とともに伊達晴宗陣営に与して大きく寄与し、この抗争が実質的に晴宗方の勝利で決着すると、新当主となった晴宗の下に在って随一の実力者として権勢を揮った。
晴宗は永禄3年(1560)頃より子の輝宗と不和となり、永禄8年(1565)頃に輝宗に家督を譲って隠居した。しかし家中では晴宗派・輝宗派といったそれぞれを支持した者たちの反目は払拭されておらず、不安定な状態が続いていた。
そして永禄13年(=元亀元年:1570)4月4日、同じく伊達氏重臣の新田景綱が自身の子である義直を捕え、宗時父子が叛逆を謀り、義直もこれに加担していた旨を輝宗に言上したのである。
『伊達治家記録』によれば、宗時は輝宗を軽んじ、自ら米沢城に出仕することなく配下の遠藤基信を輝宗への使いとし、基信がその能力の高さを輝宗に認められて重く用いられるようになると、基信の暗殺を企てるなどしたために輝宗との関係は険悪なものとなったという。
そしてついには同心する者を糾合して敵対するに至ったのである。
逆意が露顕したことを知った宗時らはその日の夜、自身や同心者の米沢屋敷に火を放って米沢から退去し、子の久仲の居城である高畠の小松城に拠った。しかし事が急であったために籠城の準備もできておらず、妻子を米沢から退去させることもできなかった。
翌5日には小松城を輝宗の軍勢に攻められると、宗時らは城を支えきれずに脱出、陸奥国との国境に近い新宿(二井宿)から陸奥国刈田郡の宮へと逃れた。しかしここで伊達一族の亘理元宗・重宗父子の迎撃を受け、敗走して相馬へと落ち延びていった。
以上が史料に見える事の顛末であるが、宗時らの具体的な謀叛計画は不明で、逆意が露顕した後の慌ただしさに対して、輝宗陣営の対処は迅速である。加えて乱後に新田義直が切腹を命じられているが、他の者、とりわけて宗時らの妻子は助命されたといい、処分の軽さにも疑問が残る。
これらのことから、この鎮圧劇は輝宗が家中における大名権力を引き締めるために、目の上の瘤であった宗時一派を排除するためのものであった、とする見方もある。