最上氏・大崎氏らと和睦したことで背後の憂いを薄めることに成功した伊達政宗は、それまで北境の守備に充てていた軍兵を動員し、南進政策を執ることにした。
天正17年(1589)4月に米沢を出発して仙道の拠点である大森城に入り、5月には蘆名盛重(佐竹義広)の領国に駒を進め、阿子島城・高玉城を落とした。さらに蘆名・二階堂氏の動きを牽制しながら矛先を一転、相馬義胤領の駒ヶ峰城・蓑頸城を急襲した。これは、相馬義胤と岩城常隆らが連合して伊達領の三春城を窺いはじめたため、背後から牽制する意味があってのことだった。
政宗が相馬氏を攻めているとき、蘆名盛重と佐竹義重の軍が須賀川で合流し、岩瀬郡と安積郡の境まで進んできた。5月末のことである。その動きを察知した政宗は、急遽兵を戻すことを決めるとともに、片倉景綱を遣わして蘆名氏の重臣・猪苗代盛国の内応工作を行わせている。これが6月2日ないし3日のことである。
この盛国の謀叛を知った盛重は驚き、そのまま須賀川に滞陣していれば本拠地の黒川城(のちの会津若松城)を奪われてしまうと判断し、6月3日の夜に須賀川の陣を撤し、黒川城に急行した。盛重が黒川城に到着したのが4日であるが、ちょうど同じ頃に政宗も猪苗代盛国の猪苗代城(亀ヶ城とも)に入っている。
6月5日の午前2時頃、盛重は1万6千の兵を率いて黒川城を出発して猪苗代に向かった。その時点で盛重側が政宗の猪苗代入城の情報を得ていたかは定かではないが、この出陣の目的は謀反人・猪苗代盛国の誅伐であったと思われる。
盛重はまず大寺に着いた。また、盛重の重臣の富田氏実の子・隆実が布藤の高森山に布陣し、さらにその北東の湯達沢に到着している。
一方の政宗も猪苗代城を出て磐梯山の山麓に進み、その中腹にあたる八森山に本陣を置いていた。蘆名方1万6千、伊達方2万3千の兵力と伝わる。
午前6時頃、湯達沢付近で戦いが始まった。蘆名方の第一陣・富田隆実隊が、伊達方の先陣・猪苗代盛国隊と衝突したのである。内応者がその忠誠心を試されるため、旧主にまず当たらせられるというケースが多いが、この場合の盛国の立場もそれであった。
緒戦は西から吹く烈風によって巻き上げられる砂塵に視界を遮られ、伊達勢の敗色が濃くなった。先陣の盛国隊が蘆名の富田隆実に追い詰められる状況を見て、政宗は富田隊の側面から鉄砲で攻撃させたが、この鉄砲隊も富田隊に蹴散らされてしまった。伊達方の第二陣・原田宗時、さらには第三陣の片倉景綱までもが敗れて後退してしまうという事態に陥ったのである。
しかしこのとき、どうしたわけか蘆名方で戦っていたのは先陣の富田隊だけであり、隆実からの要請にも関わらず、蘆名軍の第二陣・佐瀬河内守以下の諸隊は、戦闘に加わる動きが見られなかったという。
伊達方の諸隊が後退したため、主戦場は会津磐梯山と猪苗代湖の間に広がる広大な草原の摺上原に移っていた。この頃から風向きが変わり、今度は蘆名方に砂塵を叩きつけたのである。その様は「霧の如くして東西も見分けざる」有り様だったと伝わる。
富田隆実は十騎ほどで政宗の本陣に斬り込んでいったが政宗の馬廻り衆たちに遮られて、その後の行方がわからなくなってしまったという。大将のいない富田隊が崩れるとともに蘆名勢は足並みが乱れて敗走することになったが、盛重は馬廻り衆の4百騎を率いて政宗本陣に攻撃をかけた。しかし政宗側の厚い壁を破ることはできず、盛重自身も敗走することになってしまったのである。
一説には、このとき高台で合戦を見物していた百姓がいて、片倉景綱がそれを追い払おうと鉄砲を放ったところ、その百姓達が蜘蛛の子を散らすように四散したため、それを味方の敗走と勘違いした佐瀬隊や蘆名方第三陣の松本隊が敗走を始め、これがきっかけとなって全軍の総崩れとなったともいう。
蘆名勢が敗走を始める前に、猪苗代盛国が日橋川にかかっていた橋を切って落としていたため、敗走兵はあとから続いてくる軍勢に押し出される形となって川に落ちて溺死する者が続出したという。
午後4時頃、合戦の決着は明らかとなった。蘆名勢の完敗である。盛重のまわりには30騎ほどしか残らず、ようやく2人の家老に説得されて黒川城に戻ることになった。日橋川の橋が落とされていたために遠回りをし、西の堂島の橋(一説には落合の橋)を渡って黒川に帰城した。
しかし、今回の戦いで主力ともいうべき2千の軍勢を失った盛重に黒川城を支えるだけの力はなく、政宗に攻められる前に城を脱出、10日の夜には黒川を捨てて白河に走り、さらに生家である佐竹氏を頼って落ちていったのである。
こうして政宗は6月11日、難なく黒川城に入ることができた。蘆名氏累代の所領であった会津・大沼・河沼・耶麻の4郡のほか、安積郡の一部、下野国塩谷郡の一部・越後国蒲原郡の一部など、広大な地域が政宗の手中に帰したのである。
この後政宗は、居城をそれまでの米沢城からこの黒川城に移している。それは新領土の経営にとっても、また、対佐竹氏との戦略上から見ても必要なことであった。
この合戦によって鎌倉時代以来の名族・蘆名氏は滅亡した。