佐竹義広(さたけ・よしひろ) 1575〜1631

佐竹義重の二男。佐竹義宣の弟。母は伊達晴宗の娘。幼名は喝食丸。通称は平四郎。別称を白川義広・蘆名盛重・佐竹義勝。主計頭。
天正3年(1575)に父・義重が白川義親の陸奥国白河城を陥落させた際の講和条件で義親の養嗣子となることが決まり、天正7年(1579)頃に白河城主の地位を継承して白川義広と名乗った。
天正14年(1586)11月、白川氏と姻戚関係にあった蘆名氏の当主・蘆名亀王丸がわずか3歳で夭折したことを受けて蘆名氏への入嗣が決まり、天正15年(1587)3月に亀王丸の姉と結婚して蘆名氏の名跡を継承して蘆名氏第20代当主、会津黒川城主となった。このとき、名を蘆名盛重と改めている。
しかし、入嗣した義広に随行した佐竹家臣と従来からの蘆名家臣との間で対立が起こり、反義広派が版図拡大を目論む伊達政宗と結んだため伊達氏との抗争が顕在化し、天正17年(1589)の摺上原の合戦で伊達勢に大敗し、黒川城を棄てて実家である常陸国の佐竹氏のもとへと逃れた。この敗戦で蘆名氏は滅亡するに至った。
天正18年(1590)の小田原征伐後の論功行賞において、会津領への復帰は叶わなかったが羽柴秀吉から常陸国龍ヶ崎に4万石の所領を与えられ、兄・佐竹義宣の与力大名となる。文禄4年(1595)には加増転封され、江戸崎に4万5千石の所領を与えられている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては不参のゆえをもって徳川家康から所領を没収されて佐竹氏の臣下となり、佐竹氏の出羽国への転封に随行し、角館に1万6千石を与えられた。また、この頃に名を義勝と改めている。
寛永8年(1631)6月7日没。57歳。法号は大暹院性翁天公大居士。