越後国の上杉謙信と甲斐国の武田信玄による、信濃国北部の善光寺平近辺をめぐる抗争の総称。善光寺平を流れる犀川と千曲川に挟まれた中洲周辺の地域が主戦場だったことに因んでこう呼ばれる。
通説では天文22年(1553)に第1回、天文24年(=弘治元年:1555)に第2回、弘治3年(1557)に第3回、永禄4年(1561)に第4回、永禄7年(1564)に第5回の抗争があったとされるが、この5回説を疑問視する説もある。5回のうちで最も激戦だったのが第4回目の合戦で、単に「川中島の合戦」といえばこの4回目の合戦を指す場合が多い。
発端は信玄によって所領を逐われた北信濃諸将が謙信に援助を求めたことによるもので、謙信はそれに応えて出兵を決意したというが、それだけではなく、現実的には信濃国が征服されればその次は越後国が標的となることを憂い、いわば自領の防衛のために出兵したと推察される。
しかし5回の合戦を経ても謙信は信濃国における信玄の優位を覆すどころか逆に押し込まれており、一時的にではあるが永禄7年には武田勢の越後国侵入を許している。この「川中島の合戦」を局地戦ではなく、戦略戦として捉えた場合には信玄の勝利といえよう。