病気で苦しんでいるときに平常心で居ることは難しいことですが…
『身どもは、唯何とぞして、仏心を見出したい事哉と思いまして、
むだ骨を折り、あがき廻りましてござる。この様に外に求め、
内に喘ぎましたに依って、仏心を見つけ出す事はおきまして、
却って煩い出し、いろいろと養生しても平癒しかねて、
久々煩い難儀をしましたが、是に依って、
又、病の事もよく合点が行きましてござる。
この世界へ生れ、身があれば、病もまた有る事でござるが、
先ず仏心は、病に限りませず、一切を離れて居りまするにより、
あながちに病苦の為に、煩いはしませぬ。
この煩わぬと申す事も、元来不生な物でござるに依って、
苦楽には預かりませぬ。又、預からぬ故に、
苦も楽もない事を、よく合点をし、病に頓着を離れ、
不生のままで居ますれば、苦しみはしませぬ。
この苦しまぬと申す事が、仏心には苦も楽もないと云う事の、
よい証拠でござるわいの。又、右申する通り、
身が有れば病もござる故に、一向ないと云う事でもござらぬ。
是をいかにと云いまするに、仏心は霊明な物ゆえに、
病は病、苦は苦とよく別れまして、其の上病の軽重をもよく知りまする。
この軽重を知る事も、又、病に頓着せず、不生のまま、
病に順じて苦しまぬと申す事もこれまた、霊明の徳と申す物でござるわいの。
皆の衆がこの事を知らっしゃれいで、病みまする時に、
念を生じ、其の病に頓着をし、苦しみをこしらえ、
其のこしらえたる苦しみに、仏心を仕替えて、
重く苦しまっしゃる事を笑止に思いますれども、是非もござらぬわいの。
この病に頓着して苦しむと申す事、如何様の儀ぞなれば、
先ず病がおこりますれば、二十日、三十日、又は一年も、
煩って居ましょうとも、最早本復しそうな物じゃが、
薬が合わぬか、医者が、下手かなんどとて、とつおいつ、いろいろと思い、
本病の外にとやかくと頓着し、
仏心を苦しみに仕替え、この苦しみが気病と成りて、
骨に入り、却って本病よりも重う成りまして、
逃るを追廻る様になり、本病は少々ずつ元気を得まして、
逃れますれども、かの追い廻る気分の病が勝ってつのりまするを、
頓着をして苦しむとは云いまするわいの。
前に云い聞かせまする通り、仏心に霊明の徳を具して居りまする故に、
病苦とに限りませず、一切事がよく通じ別れまする様にござる。
さるにより、病苦の時も、取り合わず居りまするに、
又、居られぬと云う事もござらぬ故に、病がおこりましたらば、
其の病にひしともたれて居まして、もし苦痛があらばうめくもようござり、
一切に唯頓着をせぬと云うが、畢竟一大事でござる。
頓着がなければ、仏心が不生で働きますると云う物でござるに依って、
病の時も無病の時も、平生不生の仏心で、
起滅に預からず居るがよい事でござるわいの。
この病一つが合点が行かば、一切事の埒が明きまする。
さかいで繰り返し又云いまする。然れば、病に念が取り合って、
その念が苦しむ事と知らっしゃれい。三悪道の苦しみも、
末向したる事でござる程に、生死起滅の念に預からっしゃるな。
生死起滅のない不生なが仏心でござるわいの。』
(後篇四三より)