良寛にも「死ぬ時節には死ぬがよく候。」という言葉がありますが、 盤珪も生死に囚われない心の持ちようについて説いています。
『生死自在と申す事に世間の人が得て誤る事でござる。
或いは前日より日限をきめておいて死に、
又来年何月何日に死のうと言って、其の期に病なくして成る程、
たしかに死にまし、或いは日を延べ、月を延べ、
死にまする生死自在と心得る人が多うござる。
身どももまた是を、生死自在でないとは言いませぬ。
自在な事は甚だ自在でござる。然れども、
これらは人々修行の力に依っての事でござる。
道眼の開かぬ人々もまま有る事でござる。
又、凡俗の上にもままござる事なれば、
死を知る事は知れども、道眼はいまだ開けませぬ故に、
この儀を是とも云いませぬは、不生の人は生死を越えて居まする。
さていずれもが、この生死を越えて居るとはどうしたる事と思わっしゃろが、
不生な物は不滅でござる。其の滅せぬ物の死ぬると云う事はござらぬによって、
生死を越えて居ると云う事でござる。
身どもは、生死に預からずして死にまするを、生死自在の人とはいいまする。
又生死は二六時中に有りて、人壽一度臨終の時ばかりの義ではござらぬ。
人の生死に預からずして、生きらるる程に、何れも生き、
又死ぬるる程に、死が来たらば今にても死ぬる様に、
いつ死んでも大事ない様にして、平生居まする人が、生死自在の人とは云い、
又は、霊明な不生の仏心を決定の人とは云いまする。
そんじょ幾日の何時に死のうなんどと思うたり、
云うたりすると云う事は、何と窮屈な事ではござらぬかいの。』
(後篇八より)
『又、生死即涅槃という事がござる。是また、生死に預かった事でござるわ。
生死の上、取りも直さず涅槃という事でござらぬか。
いかにと云いまするに、人々親の産みあたえられました仏心が、
今日一日事を不生で調う事、合点が参らぬでござるは。
文字言句に預かりて、外に生死涅槃を求めて、せんさくしまする故、
不生の仏心を生死起滅の念に替えて、二六時中、
生死の上の働きなれば、誠に一日片時も安穏な日のない事を思いまして、
笑止な事でござる。仏心が不生で万事調うて居ますれば、
生死も涅槃も知りませぬ。不生の場から、生死も涅槃も、
皆跡の詮議と云う物でござる。こうした事ゆえに、
昨日までも、示しに預かった人にても今日よりして、
よく其の非を知って、不生の仏心を三毒に仕替えず、
生死涅槃に預からず、不生の仏心で居て、四大分散の時も、
其の分散に任せて、頓着せず死にまする人を、生死即涅槃の人という、
又、生死自在の人とも云いまする。』
(後篇九より)