男尊女卑の江戸時代においても、 『盤珪禅師説法』には女性に対する説法があちこちに登場しています。
『去年某し備前へ参り説法致したる時、
備中の庭瀬と申す所の町人そうにござあったが、
四五人づれで備前へ聴聞に参りましたが、其の内一両人は女義でござった。
其の女義の内に一人、身どもへ案内申されまする。
少したずね申したき事ござあれども、御説法の会座にては、
女、さし出てたずね申されませぬが、御内所にて申したき事がござある、
と申しこしましたに依って、成る程やすき事と申してつかわしたれば、
或る時この者ども四五人参り、知る人に成りました。
其の時女義一人たずねまするは、我は庭瀬と申す所の者でござるが、
渡世も人なみにおくりまするが、夫にそいましても子と申すものがござりませぬ。
されども先腹に一人の男子がござりまして、是を介抱致しましたれば、
成人致して、殊更この子実の母の様に存じて、我等へ孝行にござりますれば、
我等がうみました同然に存じまするに依って、
別して実子のござない事もくるしかりませぬが、
ここに一つのなげきがござりまする。
子の無き女は後生を願いましても仏になられませぬと申しまするに依って、
出家衆へ尋ねますれば、いかにも女は男にかわりて成仏なりがたい、
と申されます。さればこの人界へ生を請けまして、
仏にならぬ女に生まれましたは、さてもさても人間に生まれましたかいもござなき事と、
朝夕是をなげきましたれば、ついに是が煩いとなりまして、
近年斯様にやせおとろえましてござりまするが、
我等常々存じまするは、あわれ尊き御出家に逢いまして、
一定女は仏になりませぬものかと尋ねましたいと存じおりましたれば、
今度和尚様この所へ御越し成られ、御説法ありと承り、
さてもありがたや、日ごろの念願成就致したと存し、
このつれ衆と参りましたが、御縁ふかく存念を申し上げまする。
いよいよ常に承りました通りに、子なき女は仏に成りませぬか、と尋ねました。
又、連れの者共も、この人の申されまする通りに、
子なき女は成仏しませぬと聞かれまして、それより朝暮れなげかれましたが、
近年ぶらぶらと煩い出されて、斯様に見るかげもなきようになられました。
されば世間に子のなき女も沢山にあれども、
さほど後生をなげきまする者はござないに、この人は、
仏に成りがたき事をひとえになげかれまして、
御覧の通り斯様にあさましき姿になられてござります、と語りました。
今日、よきついでなるに依って是を申し出しましたが、
この女義へ身どもが申しましたを、ようきかせられい。
彼の女義へ問いまするは、子のなき者の仏に成りたる証拠に、
某なんどの祖師達磨よりこのかた、代々伝えて某底まで、
子をもたれる衆は一人もおりない。然らば、
この衆は何れも地獄に落ちられたるで有ろうか。
禅の祖師達磨、地獄に落ちられたと云う事を聞かれたか、と尋ねました。
彼女義の答えには、それは御子達のござなきとても、
御祖師なり和尚衆なり、何の地獄へおちたまわん。
何れも御仏にてましますべし。それならば、子なき女とても、
男女共に仏心備わる身の上に、後生願って仏にならんと云う事あるや、
と申しきけましたれば、それは、誠に有り難い事にてござあれども、
女の成仏はかたしと承れば、是がむねにつかえました、と尋ねました。
それならば又身どもがいいまするは、
女人は仏に成らぬとお聞きやってなげきやるか。
それならば、子のない女人ばかりにかぎらず、
出家とても悪い事を致すと地獄へ落つれば、
あながち出家とてもたのみには成りませぬ。
すれば、子のない女とて出家とて、悪事をやめて後生ねがうに、
仏に成らぬと云う事はござらぬ。
その証拠には釈迦以来女の成仏多き事を申しきけました。
釈迦の時代に八歳の龍女、唐にて霊照女、斯様の人、
吾が朝にては、當麻の中将姫、皆これ女の身ながら仏になりたり。
どこに女の身は仏に成らぬと云う事のあるぞ。
其の方のうたがいの起こる事も信心が無さ。
その信心を深く起こさずにおいて、後生を案ずると云う事は、
愚かな事じゃほどに、其の案じわずらう手間で、
親の生みつけられし一仏心にうたがいなく信心決定をし、
後生をねがうて仏に成らぬと云う事もなく、
また身どもに仏になるかならぬかと問うに及ばず、
手前で埒が明くほどに、身どもに任せて不生の仏心でおいやれば、
今日より未来永劫まで、生身の仏で居ると云うものじゃ、
と申せば、彼女義とくと合点致されまして、
さてもさても有り難き御事、日ごろの思いを只今晴れました、と申され、
其の後も備前に暫く逗留致され、度々説法聴聞致されてござるが、
逗留の内に食事もすすみ、尤も気色もよくなられてござるが、
連れの面々もこの人本復のていを見ましてきもをつぶし、
さてもうれしやかたじけなやと、殊の外喜びました。』
(前篇三八より)
なお、『八歳の龍女』とは法華経に出てくる女人成仏の話で、 それゆえに法華経は平安時代の女性にも篤く信仰され、 日蓮も法華経こそが女性を救うと信者に説いています。
ただし、男女の間については厳しく行いを律していたようです。
『祖崙、如法寺看坊の時、余に語って曰く、
「家中諸士の内妻並びに娘の気癖ある者、我を頼み、
師(=盤珪)に独参させ、誡示を願う者多し。いつも集雲庵にて御逢い、
我を召され、次の間に居らしむ。
妻娘を放し独参せしむる程なれば亳許りも疑う事はなけれども、
師の用心是の如し」。律に女人に対する時は、
第三の人と云う事、自然に符合せり。龍門寺に在ます時も、
比丘尼或は女人独参の時は、林貞尼の庵にて林貞召しつれ出でけり。』
(佛智弘済禅師行業略記一七より)