盤珪は公案によって悟りを求める臨済宗の僧でありながら、 公案禅に対しては批判的でした。
『或る僧曰く、某、久しく百丈野狐の話を提撕致して、
骨折りますれども未だ会得せず。是只工夫純一ならざる故に。
願わくは請う、師、開示したまえ。
師曰く、身どもがところには、其の様な古反故のせんぎはいたさぬ。
こなたは未だ不生にして霊明なが仏心と云う事を知らぬ程に、
云うて聞かしょう。それで埒のあく事じゃ。
身どもが云う事をとくとようをききやれ、と云うて、不生の示しあり。
この僧深く肯いて、衆人に超出す。』
(前篇二六より)
『又、傍らの僧問う、然らば、古人の古則話頭は、役にもたたず、
要らぬ物でござるか。
師曰く、古徳の一挨一拶は、当機覿面に来門を塞ぐ分の事で、
別に用いるところ無し。身どもが口から、要る物のとも要らぬ物とも、
役に立つ物とも立たぬ物とも、言おうようはない。
人々、只不生の仏心でいればそれですむ程に、
すむに又わきかせぎしょうようはござらぬ。
した程に、不生でいるようにしてござれ、只御手前は、
ひたものわきかせぎがつよさに、却ってそれに迷う程に、
それをやめて、只不生にして霊明なが仏心に極ったほどに、
不生な仏心で居るようにめされ、となり。』
(前篇二七より)
『或る僧問う、只今三種病人が出で来らんとき、禅師は如何が接得したまわん。
師曰く、三種病人が何程尊ければ、せんぎしてなりたがるぞ。
即今、其の方は三種病人にあらざる程に、成りにくい三種病人になりたがろうより、
三種病人でない其の方、まずさし当った手前への上へを極めめされ。
外の事を云いまわるはむだ事じゃ程に、身どもが云う事をようをききやれ、となり。』
(前篇二八より)
『総じて近代の知識は、道具をたのまず人を接する事はえ致さいで、
道具を以って人に接す。道具でなければ叶わぬ様に思い、
道具でなければ人を接する事は成らぬようにしますが、
直路に指し付けて示す事をしませず、
道具でなけりゃかなわぬ様に致して道具で人に接するは、
瞎眼の禅子と云う物でござるわい。或は又、この道に進むには、
大疑団を発して、其の疑団が破れねばやくに立たぬ程に、
まずどうあろうと儘よ、疑団を起こせと云うて、
不生の仏心で居よとは教えず、疑団の無い者に疑団を擔わせて、
仏心を疑団にしかえさせますが、錯りな事でござるわい、となり。』
(前篇三三より)
『皆の衆が、修行の座禅のと御座って、悟り出さんと思わしゃって、
力を出して修行するは、大きな誤りで御座る。
一切諸仏の心と各の仏心と、二つは御座らぬに、
悟りたいと思わっしゃれば、悟り独りと悟らるる物と、
二つに成りまする。又、少しにても悟りたいと思う心あれば、
はや不生の場を退き仏心に背きまする。この親の産み付けあたえられました仏心は、
唯一つにて、二つも三つも御座らぬわいの。』
(後篇二六より)
『人のくれもせぬ物を欲しいと思いまする、
其の欲しいと思いまするが我欲で御座る。
其の我欲より身の贔屓を起こし、其の身のひいきに依って迷うておいて、
悟りたいなんどと思う事は、第二に下りたる事で御座る。
親の産み付けてたまわりました仏心は、不生な物で御座れば、
迷いも悟りも御座らぬ。ひょっと一念迷いまして、
それに枝葉を出してまよわずには得居ませいで、又悟りたいというは非な事、
又造作な事で御座る。』
(後篇三一より)
『或る僧問うて曰く、悟りを目当に仕りまして、修行致しまする。
是がよう御座りまするかと云う。禅師の御答に、悟りと云う事は御座らぬ。
そなたの心が、本来仏で御座るに、仏心に何の不足が有りてか、
又外に悟りを求めさっしゃる。何れもの仏心が、
不生にして埒の明く事を云うて聞かせましょう。
我が方から見よう共思わずして、この座中に有る程のあらゆる物を、
一つも見落としもせぬが不生の仏心、仏心は不生にして埒の明くと云うが、
霊明なる徳と云う物で御座るわいの。
又、僧の云う、左様では阿房で御座りまする。か様な分にては、
悟りまする事も成り難う存じまする。昔、祖師達磨より、
今に悟る事を本意となされて御座りまする。
禅師もまた曰く、釈迦は阿房にて十万の衆生を渡し給う。
それを仏と云いまする。そなた、よく聞かしゃれい。
只今迄は迷うて御座ったれ共、来る事も、
去る事もなき不生の仏心じゃと云うこの断りを聞別さっしゃれば、
最早、萬劫流転はなされぬと云う物で御座る。
たとい又、人がそしるとも、笑うとも、それによらずさわらず当らぬ様に、
仏心をそこなわぬを、信心決定とは云いますると仰せ也。』
(後篇五四より)
『問いて云う、悟りまする事は、いか様の事で御座りまする。
禅師の云う、悟りと云う事は御座らぬ。
それはとっと末なせんさくで御座る。
親の産み付けられた仏心は、不生にして霊明な物と決定が悟りで御座る。
この決定がなさに迷いまする。本来の仏心は、不生にして働きますれば、
迷いも、念も、悟りたい念も、少しも御座らぬ。
もし悟りたいと思いますれば、はや不生の場を退き背くと云う物で御座る。
仏心は不生なる物故に、毛頭も念が御座らぬ。
念は迷いの根本で御座れば、念がなければ、又、迷いも御座らぬ。
迷わずにおいて、また悟りたいというは無益な事、
何とそうでは御座らぬかとの仰せ也。』
(後篇五五より)