観応(かんのう)の擾乱(じょうらん) (1/2頁)

足利直義は兄・尊氏の片腕となってその創業時より助けてきた。尊氏が正慶2:元弘3年(1333)に鎌倉幕府を討つために兵を挙げたときにも行動をともにし、建武新政権の樹立後は後醍醐天皇の子・成良親王を奉じて鎌倉に在って関東の政務を執った。
建武2年(1335)7月の中先代の乱、そして後醍醐天皇と決別したのちの九州下向などにおいても兄をよく支え、尊氏も建武3:延元元年(1336)8月17日付で清水寺に捧げた願文において「直義に今生(現世)での果報と安穏」を願うほど直義を深く信頼し、頼りにしていたことが窺える。とくに室町幕府の草創期においては、尊氏が軍事指揮権・恩賞権を握って「武家の棟梁」として諸国の武士を統括したのに対し、直義はそれを補完するかのように所領などの裁判を中心とした日常的な政務や統治を執行し、いわゆる二頭政治を柔軟に機能させた功績は大きい。当時の人々も「直義は政道(政治)、尊氏は弓矢(軍事)」と評していたようである。
しかしその反面、権力の二極化はそれぞれの側に随従する党派を生じさせることになった。直義は旧鎌倉幕府以来の有力領主や奉行人、寺社本所勢力といった旧体制、言わば保守的な領主らから支持を得たが、新興領主および家格の低い武士らからは反発を招くこととなり、この後者らは中小武士層の組織化を図っていた足利氏の執事・高師直のもとへと流れていったのである。
師直は貞和4:正平3年(1348)1月の楠木正行勢との四条畷の合戦、それに続いて南朝の本拠である吉野への侵攻などで武名を挙げており、その威勢に乗じてのことか、所領不足を訴える配下武将に公家や寺社の所領を押領することを勧めるといった秩序を乱すような言動をしていたことが知られ、「直義党」「高党」と称されるこの両陣営の反目はしだいに深まっていったのである。

そして両者の決裂は決定的なものとなる。貞和5:正平4年(1349)閏6月、直義は尊氏に迫って師直の執事職を罷免させたが、師直は同年8月13日に5万余騎の軍勢で京都の直義邸を取り囲むという報復措置に出たのである。師直はこの威圧に先立って播磨国の赤松則村(円心)を味方につけ、当時備後国にいた直義の養子・足利直冬が直義の救援に駆けつけることができないように街道を封鎖するよう要請している。
これに対して直義邸にも7千余騎が参じたものの兵力の差は明らかで、この切迫した事態を知った尊氏は使者を送って直義を自邸に呼び寄せて匿ったが、14日には師直の軍勢は直義を追って、そのまま尊氏邸を包囲したのである。この圧迫に直義方からは脱落者が相次ぎ、最後まで残った者は1千騎にも満たなかったという。
和睦を斡旋した尊氏は、直義党の中でも中核的な存在であった上杉重能・畠山直宗を配流とすること、直義が政務から引退して尊氏の嫡子・足利義詮を鎌倉から召喚してその後任に就かせる、といった師直の要求をほぼ全面的に容れることで決着させた。その結果、師直は執事に復帰し、直義は政界からの引退を余儀なくされることになったのである。
なお、流罪に処された上杉重能・畠山直宗は同年12月、師直の指示によって殺害されている。

実はこの直義の更迭劇は当時から尊氏と師直が結託して仕組んだものとの見解がなされており、その企図するところは、直義の握っていた職掌を義詮に委譲させることだったという。
尊氏は将軍に任じられて自らの政権を興したとはいえども未だ機構が成熟しておらず、有能かつ信頼に足り、自分に匹敵するほどの威光を持つ者、言わば分身のような者の助力が必要な状況であった。この点において直義はまさに適任であったが、統治者としての地位を絶対的なものにするためには、遅かれ早かれ権限を将軍に集中させることが必要であった。
尊氏の持つ将軍という名の権威や軍事指揮権、直義の握る政務や統治に係る権限、これらを併せて次代の義詮に譲り渡すためであったと目されている。

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