小田原(おだわら)征伐 (1/2頁)

相模国小田原城を本拠として関東8ヶ国におよそ300万石ともいわれる国力を誇った北条氏は、織田信長の存命中は信長に誼を通じ、天正10年(1582)の甲斐国の武田攻めのときなどは同盟軍として関東から兵を出しているほどであった。ところが信長が本能寺の変にて討たれると態度が豹変し、織田氏の有力武将であった滝川一益神流川に戦ってこれを破り、実質的に信長の後継者となった羽柴秀吉とは没交渉の状態であったばかりか、徳川家康と結んで反秀吉的行動に出ていたのである。しかし、そうした北条氏の立場は天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦後の、家康の秀吉に対する講和・臣従によってますます苦しくなっていったのである。とはいえ、天正15年(1587)までは秀吉の主な攻撃目標が四国・九州に向けられていたために、北条氏は独自の権力基盤を守り抜くことができていたのである。
九州征伐で薩摩国の島津氏が降伏したことにより、秀吉の次の標的は関東に向けられた。秀吉は、九州征伐から凱旋後の天正15年(1587)12月3日に「関東・奥両国惣無事令」を発令することによって、関東から出羽国・陸奥国に至るまで、大名や領主同士による私闘を禁じたのである。しかも、その「関東・奥両国惣無事令」を補完したのが翌天正16年(1588)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸であった。これを好機と捉えた秀吉は諸大名から誓紙を取ることで関白・秀吉への絶対的服従を求め、これによって秀吉へ臣従の礼を取らない大名は、秀吉の「私的」な敵ではなく、「公的」な敵として位置づけられることになったのである。
早速、秀吉は北条氏当主・北条氏直の岳父にあたる家康を介して北条氏政・氏直父子の上洛を命じた。家康にしてみれば複雑な心境であったろうが、すでに秀吉に抗するのは不可能と判断し、「上洛を承知しないのであれば、氏直に嫁がせている娘の督姫を離縁していただきたい」と申し送っている。つまり、上洛に同意しなければ同盟関係を破棄しようというのである。さすがに北条氏もこれには負けて、氏政の弟・北条氏規を上洛させた。しかし、真田氏との上野国沼田をめぐる領地問題(沼田領問題)が解決しない以上は氏政・氏直自身は上洛しないという固い態度であった。その一方では秀吉との戦いがあることを想定して、居城・小田原城やその他の支城を修理・拡張するとともに武器の製造から兵糧の確保に至るまで、万全の用意に取りかかりはじめたのである。
当時、小田原ではこれを「京勢陣用意」と表現していたという。従来の軍役基準とは別に、郷村の男子15歳から70歳までの農民を徴発する百姓大量動員態勢も具体化しはじめた。とくに氏政は、かつて上杉謙信武田信玄から攻められた際、小田原城に籠城して撃退した戦果を強く意識していたようで、小田原城に籠城すれば負けることはない、それに加えて近隣の佐竹氏や里見氏・結城氏や奥州の伊達氏らと同盟すれば一大守備陣営ができあがる、と考えていたふしがあったようである。
こうして氏政・氏直父子は和戦両様の構えで臨んでいたが、天正17年(1589)11月頃、北条氏邦の家臣で、当時上野国沼田城代を務めていた猪俣邦憲が突如として真田昌幸の支城・名胡桃城を奪うということがあった。秀吉はこの軍事行動をもって北条氏が臣従の礼を取る意思がないと見て、ついに11月24日付で5ヶ条からなる長文の宣戦布告状を北条氏につきつけ、同文の文書を諸大名にもばらまいたのである。
これを受けて北条氏が領内に出陣の命令を発したのが12月8日である。
「官軍」勢も12月10日に主だった諸将を集めて、兵役の割り当てや兵站線・兵糧の輸送などの綿密な計画を立てた。
こうして、とうとう秀吉と北条氏の全面対決となったのである。

次の頁