徳川家康は慶長5年(1600)の関ヶ原の役で石田三成らに率いられた西軍を破ったとはいえ、大坂城には豊臣秀頼がそのままいた。つまり家康は、形のうえでは依然として秀頼を主とする豊臣政権下の家老としての地位に変化はなかったのである。
しかし慶長8年(1603)2月、家康が征夷大将軍に任じられたことによって家康と秀頼との力関係は逆転することとなり、それ以後は家康の方から秀頼に対面するということがなくなった。家康が「謁見される」側の権力者となったからである。
征夷大将軍=武家の棟梁となって名実ともに諸国の大名を傘下に従えた家康であったが、豊臣家の存在には強い不安を感じていたらしい。摂津・河内・和泉の3国を領し、その中心には難攻不落を謳われた大坂城がある。秀頼の亡父・羽柴秀吉の威光も未だ忘れ去られておらず、いつ反徳川勢力の旗頭となるか知れたものではないのである。そのため、豊臣氏の取り潰しまたは征討の機を窺っていた。
一方の豊臣方では「(高齢の)家康が将軍になってもそのうちに死ぬから、そうなれば政権は再び豊臣家に戻る」という楽観的な期待があったようである。ところがその期待は慶長10年(1605)4月、あっさりと消えてしまう。家康が将軍職を子の徳川秀忠に譲り、自身は「大御所」として駿府へと居を移したのである。
こうして形の上は隠退したわけだが、実質的には院政と変わることなく、実権は家康の手中にあった。これは将軍職が徳川家に世襲されることを示しただけでなく、秀頼が成人しても政権を渡す意思のないことを意味することであった。
これに衝撃を受けた大坂方(豊臣方)では、家康に対する戦いの準備を密かに始めるのである。家康にしてみれば、あとは挑発して大坂方の方から戦いを起こさせればよい、という段取りであった。
その挑発の材料にされたのが方広寺鐘銘事件である。
京都の方広寺は、家康の勧めもあって、秀吉の冥福を祈り、あわせて豊臣家の発展を祈るということで秀頼が再建の工事を進めていたものであるが、慶長19年(1614)7月29日に至って突然、大仏開眼供養を延期するよう家康から豊臣氏に申し入れがあった。その理由は梵鐘の銘に「右僕射源朝臣」「君臣豊楽、子孫殷昌」「国家安康」といった文字があり、これを「源朝臣(家康)を射る」「豊臣を君として子孫の殷昌(繁栄)を楽しむ」「家康の文字を切って呪詛している」とする抗議であった。ちなみに、右僕射とは右大臣の唐名である。
その弁明のために駿府に赴いた豊臣氏重臣・片桐且元は家康に謁見することもできず、家康側近の本多正純や(金地院)崇伝らから鐘銘の文言のみならず、大仏殿の棟札にも大工棟梁の名を記していないこと、最近は大坂に浪人が集まり不穏な動きがあるという噂のことなどを厳しく詰問され、解決を見ないまま大坂に帰城せざるを得なかった。そして側近とのやり取りから家康の内意を憶測し「大坂城を明け渡して他に移るか、秀頼か秀頼の生母・淀殿が江戸に詰めるか」のどちらかに応じなければ、この問題の解決は困難であろうとの見解を報告したのである。
これを聞いた大坂方が怒り狂ったことはいうまでもない。しかも、且元とは違う伝手で駿府に赴いた大蔵卿の局(豊臣氏重臣・大野治長の母)は何の問題もなく家康への謁見を許され、秀頼は秀忠の娘婿にあたるのでいささかの害意もない、と伝えられたというのである。
立場をなくした且元は「裏切り者」の烙印を押され、さらには大坂城内の強硬派から命を狙われるという窮地に追い込まれたため9月25日には出仕を取りやめて大坂城二の丸の私邸に引籠もったが、これが余計に強硬派を刺激することになり、ついには10月1日に大坂城を退去せざるを得ない破目に追い込まれたのである。
これこそがまさに家康の仕組んだ策謀であった。
且元の大坂城退去と同日の10月1日、京都所司代の板倉勝重から、9月25日の大坂城内の騒擾を伝える密書が駿府の家康に届けられた。それを披見した家康は即座に豊臣討伐を決意し、その日のうちに近江・伊勢・美濃・尾張国の諸大名に出陣を命じたのである。
また大坂城内においても9月27日に織田信雄が、その翌日には石川貞政、そして且元と相次いで退去したことによって徳川方と折衝できる人材がいなくなり、強硬派のみが残ることとなった。これによって大坂城内は開戦論に染まり、諸国の大名に入城を促す書状を送るなど本格的な戦闘準備に取り掛かった。
しかし大坂城に参集したのは真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・後藤基次・明石全登など関ヶ原の役によって没落した大名や浪人ばかりで、現役の大名はひとりとして豊臣方に与することはなかった。その兵力は諸書によって違いはあるが、10万ほどとみられる。
対する家康は10月11日に駿府を出立、悠然とした行軍で10月23日に京都二条城に入った。この行軍の最中にも諸大名に出陣を命じ、この上意に応じて参陣した兵力は20万にものぼった。
10月中旬、大坂城では秀頼出座のもと、豊臣家譜代の首脳や浪人諸将らが一堂に会して軍議が催された。この軍議において真田幸村や後藤基次は「徳川方の軍備が整わないうちに出撃して京都を制圧し、そこに防衛線を構築して迎撃するべき」と、積極的に討って出て先制攻撃をすることを進言したが、大坂城の堅牢さを恃みに籠城して戦う心積もりの淀殿や大野治長に退けられ、軍議は籠城と決定したのである。
大坂方はこれと前後して諸大名の大坂屋敷や堺から武器・弾薬・兵糧などを徴発するとともに、さらに城の補強に取りかかった。とりわけて大坂城唯一の弱点とされる南面の補強に力を入れ、真田幸村の進言を容れて出丸を構築した。『真田丸』である。
その間にも徳川方の軍勢は続々と京坂に集結している。10月19日には本多忠政・松平忠明が河内国枚方と淀に布陣しており、その翌日には松平忠直が2万の兵を率いて入京して六条に布陣、家康が入京した23日には徳川秀忠が旗本および譜代大名らによって編成された5万の軍勢を率いて江戸を発した。26日には藤堂高虎・片桐且元に率いられた軍勢が河内国の国分に進出するなど、徳川方においても着々と大坂攻めの準備が進められていた。