伊勢守護を務めた畠山高国の嫡男。右馬頭。
貞和元:興国6年(1345)、石塔義房が任じられていた奥州総大将に代わる陸奥国の統治機構として奥州管領が置かれることになると、同年9月に吉良貞家とともにこれに任じられた。当時、父の高国は畠山一族の惣領であったと目されているが、国氏には幕府での目ぼしい官歴や実績もなく、奥州管領職への就任は異例ともいえる抜擢であった。
国氏と貞家の両名は翌年に陸奥国の多賀国府に赴任しているが、後見のためか高国も随行している。
その後しばらくは吉良氏と共同して職務にあたり、貞和3:正平2年(1347)の夏頃には南朝方の陸奥守・北畠顕信の勢力を圧迫しているが、中央の政局で足利尊氏・直義兄弟が不仲となって分裂抗争を起こすと(観応の擾乱)、この余波を受けて国氏は尊氏派、貞家は直義派として対立するようになった。
観応2:正平6年(1351)1月、吉良貞家が足利直義の要請に応じて上洛しようとしたところ、国氏は父の高国や留守氏らとともに敵対したとされる。しかし戦況は畠山・留守方に不利に働き、劣勢となっていった国氏・高国は多賀国府の岩切城に追い詰められ、2月12日に総攻撃を受け、高国とともに自害した(岩切城の戦い)。