実父は伊達晴宗で、その長男。伊達輝宗の同母兄。母は陸奥国岩城(磐城)平城主・岩城重隆の娘。幼名を鶴千代丸。初名は宣隆。妻は常陸国太田城主・佐竹義昭の娘。従四位下・左京大夫。
生年は不詳であるが、重隆の娘(親隆の母)の嫁ぎ先をめぐって天文3年(1534)に岩城氏・白川氏(白河結城氏)と伊達氏との間で紛争が起こり、結果的に晴宗に嫁していることから、天文4年(1535)以降の出生であろう。
天文16年(1547)に母の父(外祖父)である岩城重隆の養嗣子となり、永禄12年(1569)6月に重隆が没すると岩城氏の名跡を継いで当主となり、重隆が築いた陸奥国楢葉・磐城の両郡から常陸国の一部にも及ぶ勢力圏を継承した。
永禄9年(1563)、実家である伊達氏と蘆名盛氏の抗争を調停している。
元亀2年(1571)、病に罹って政務が執れなくなったという。親隆はこれ以前から精神に障害があったともされるが、嫡子の鶴菊丸(のちの岩城常隆)も未だ5歳であったことから、同年6月より妻とその兄である佐竹義重の介入を受け、佐竹氏が岩城氏の当主権を代行している。常隆は天正7年(1579)までには当主の地位に就いたと見えて史料にも現れてくるようになるが、それは佐竹氏の与同勢力としてであり、岩城氏はこのときを以て佐竹氏の緩やかな支配下に入ったといえる。
佐竹氏はこれと前後して白川氏や蘆名氏など、南奥羽の大名を勢力下に収めつつ伊達氏と対峙していくことになるが、岩城氏(常隆)は天正17年(1589)末頃に佐竹陣営から離脱し、伊達氏と結ぶに至る。
天正18年(1590)、常隆は小田原征伐に参陣して羽柴秀吉より所領を安堵されているが、7月に鎌倉で没した。そのため、佐竹義重の三男である貞隆を嗣子として家督に就けた。貞隆の母は伊達晴宗の娘であることから、親隆にとっては甥となる。
文禄3年(1594)7月10日に死去した。