岩城常隆(いわき・つねたか) 1567〜1590

陸奥国岩城郡の国人領主。岩城親隆(別称を宣隆で伊達晴宗の子)の嫡男。母は佐竹義昭の娘。幼名は鶴菊丸。妻は二階堂盛義の娘。従四位下・左京大夫。陸奥国岩城平城主。
元亀2年(1571)、父の親隆が病に罹って政務を執るのが困難となった。このとき常隆は未だ元服前の弱年であったため、母(親隆夫人)とその兄の佐竹義重が岩城氏当主の権限を代行している。
常隆は天正6年(1578)内には当主の地位に就いたようだが、岩城氏は事実上佐竹氏に従属することになった。
以後は南陸奥への勢力拡大を進める佐竹氏の軍事行動に深く関わることとなり、天正7年(1579)に佐竹氏が白川義親蘆名盛氏と和議を結んで連合すると、岩城氏もこれに加わっている。
天正12年(1584)、安達郡小浜城主・大内定綱の帰属をめぐって岩城・蘆名氏と田村清顕は対立するようになり、これに介入してきた清顕の娘の夫である伊達政宗とも反目した。
この大内氏を援けた二本松(畠山)氏の二本松城が天正13年(1585)に伊達氏に攻められた際、常隆は佐竹・蘆名・白川・石川らの諸氏とともに救援に赴き、伊達勢と戦った(人取橋の合戦)。
天正14年(1586)11月、幼児ながらも蘆名氏の当主として擁されていた蘆名亀王丸が夭折したのち、その後継者に佐竹義重の二男で白川氏を継承していた義広を迎えるに際して尽力したという。
その後も伊達氏と佐竹氏は南陸奥でたびたび対立し、常隆は佐竹方として活動を続けていたが、伊達氏の圧力を受けて天正17年(1589)12月に降った。
天正18年(1590)6月、小田原征伐に参陣して羽柴秀吉から所領を安堵されたが、7月22日に鎌倉で死去した。