陸奥国田村荘の国人領主。田村隆顕の子。母は伊達稙宗の五女。妻は相馬顕胤の娘。玄蕃允。陸奥国田村荘三春城主。
天文18年(1549)に相馬(弾正大弼)盛胤の妹を室に迎え、これと併せて標葉郡西部の地の割譲を受けた。両家が親密な関係にあったことがうかがえる。
元亀2年(1571)8月には白河郡の白川氏(白河結城氏)を支援し、白川領を圧迫していた佐竹義重の軍勢に対して蘆名盛氏とともに出撃し、翌元亀3年(1572)7月にも再び佐竹勢が白川領の南郷を窺うと、白川・蘆名氏らと迎撃に出陣したが、利あらずに同年中に和議を結んだ。なおこのとき田村氏は佐竹氏との和睦のみならず軍事提携も結んだようで、12月に佐竹氏が下野国の皆川氏を攻撃した際、少勢ではあるが援兵を派遣している。
天正2年(1574)1月、岩瀬郡須賀川城主・二階堂盛義の所領に侵攻。当時の二階堂氏は蘆名氏に服属しており、この清顕の行動は蘆名氏との手切れを意味し、天正4年(1576)には佐竹氏と呼応して蘆名領に攻め込んでいる。
この佐竹氏との提携は同年8月まで続いたが、9月には突然に蘆名方に転向し、翌天正5年(1577)には佐竹氏の支配下にあった白河城を蘆名氏とともに攻略し、白川氏の家督に白川義親を復帰させている。
佐竹氏が天正6年(1578)8月に白川氏、天正7年(1579)7月に蘆名氏と和睦したことにより、佐竹・岩城・石川・白川・蘆名・二階堂の諸氏による連合勢力が形成されたが、田村氏は佐竹氏と敵対していたことから連合には加わらず、むしろ周囲をこの連合に囲まれたことになって孤立した。そのため清顕は伊達氏との関係強化を図り、同年冬に娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子・政宗に嫁がせている。
しかし佐竹・蘆名氏の攻撃を受け、天正9年(1581)に制圧地だけでなく、本領の一部を割譲して屈服した。
天正12年(1584)5月、佐竹氏らとともに伊達氏と相馬氏の講和を仲介し、これを実現させている。しかしその反面では蘆名盛隆・岩城常隆との関係が悪化し、抗争に及んだ。また同年10月に伊達氏の当主が政宗に代わると、伊達氏との連携はさらに強まった。清顕は安達郡小浜城主の大内定綱とも抗争していたが、天正13年(1585)にはこれに伊達氏が介入し、大内氏を庇護する蘆名氏との抗争に拡大したため、南陸奥は伊達・田村方と佐竹・蘆名・岩城方に分裂する構図となっていく。
天正14年(1586)10月9日に没した。法名は雲岳松公長雲寺。
清顕には男子がなく、後嗣を決めずに急死したため、家督相続をめぐって家中は親伊達派と親相馬派に分裂した。天正16年(1588)に至って伊達政宗の調停で甥にあたる宗顕(清顕の弟である氏顕の子)が家督を継いだが、以後の田村氏は自立性を失い、伊達氏に従属することになった。