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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

社会情勢

全国

1904年(明治37年)2月4日、日本政府は御前会議において対露開戦を決定した。 6日、ロシアに国交断絶を通告、8日には海軍による旅順港攻撃、陸軍の仁川上陸により日露戦争が開始された(宣戦布告は10日)。(1)

朝鮮半島に上陸した第1軍は5月1日の鴨緑江会戦に勝利、5月5日に遼東半島に上陸した第2軍は南山・大連を攻略し旅順要塞を孤立させた。 一方海軍は、旅順港の封鎖には成功したものの、ロシア太平洋艦隊は健在であった。 太平洋艦隊の動きを封じるため、3次にわたる旅順港閉塞作戦を実施したが不首尾に終わった。

太平洋艦隊は旅順に逼塞したが、ウラジオストックの巡洋艦隊は活発な洋上通商破壊戦を展開した。 開戦早々の2月11日に、「奈古浦丸」を撃沈したのを手始めに、4月26日には陸軍運送船「金州丸」を撃沈、「佐渡丸」を撃破した。 ウラジオストック艦隊の跳梁は、国内世論を憤激させ、これを許した海軍に対して非難の声が向けられることとなった。

呉市

1903年(明治36年)末、日露間の関係が急を告げると、建造中であった巡洋艦「対馬」および水雷艇5隻、および他艦船修理の工事が急がれた。 さらに、仮装巡洋艦他の徴傭船舶に対する兵装・艤装工事も重なり大繁忙となったが、民間造船所の利用、臨時傭職工等により、これを乗り切った。(2)

鉄道

東京−下関連絡時刻表 1904年(明治37年)2月
図1 東京−下関連絡時刻表
1904年(明治37年)2月

日露開戦直後の2月14日、東海道線と山陽鉄道は軍事輸送のため戦時ダイヤに移行した。 急行列車は運転休止となり、長距離列車は新橋−神戸間2往復、神戸下関間2往復となり、民間輸送は極度に圧迫された。(3)

参考として図1に1904年(明治37年)2月改正の東京−下関連絡時刻表を示す(4)。 戦時ダイヤにより、新橋−下関間を最短で移動するには、この2本の列車を乗り継ぐしかなかった。 2本の列車は、午前と午後、ちょうど12時間ずれた同じパターンのダイヤで運行されているのがわかる。 新橋−下関間の所要時間は下り49時間33分、上り49時間43分で2日以上かかっている。

ちなみに日露開戦前の最速は、官鉄の急行と山陽鉄道の最急行を乗り継いでの下り28時間、上り27時間40分であった。

呉線−1904年(明治37年)5月

呉線時刻表 1904年(明治37年)5月
図2 呉線時刻表 1904年(明治37年)5月

日露開戦により、呉線も軍事輸送優先の戦時ダイヤとなった。

図2に1904年(明治37年)5月改正の呉線時刻表を示す(5)。 運転本数は、開業時の呉−広島間6往復、呉−海田市間3往復から呉−広島間5往復に減らされている。 所要時間は最速58分、平均で1時間である。

呉線においても、パターン化されたダイヤとなっており、上り/下りで、それぞれ2種類のパターン・ダイヤとなっている。

この時刻表には掲載されていないが、この年の8月1日〜9月15日には、海水浴客のための臨時停車場として濱崎仮停車場(天応駅起点1kmの現・呉ポートピア駅付近)が開設され、その後も夏季のみ営業していた(6)

官報(7)にも公示されているので、この年の夏に濱崎仮停車場が設置されたことは間違いないようであるが、この時期は日露戦争の最中である。 1904年(明治37年)の8月といえば、黄海海戦(10日)、蔚山沖海戦(14日)、第一回旅順総攻撃(19日)、遼陽会戦(30日)が生起しており、海水浴を楽しむ状況ではなかったと思われるが、設置理由等は不明である。

参考資料

  1. 鳥海靖.もういちど読む山川日本近代史.東京,山川出版社,2013.p103.(ISBN978-4-634-59112-7)
  2. 呉海軍工廠編.呉海軍工廠造船部沿革誌.広島,あき書房,1981.p15
  3. 大久保邦彦・三宅俊彦・曽田英夫編.鉄道運輸年表〈最新版〉.東京,JTB,1998,p20,旅.1999年1月号別冊付録 第73巻第1号 通巻864号
  4. 汽車汽船旅行案内 明治37年7月号(通巻第118号).東京,中央社,1972.甲ノ1-甲ノ10,1-2.懐しの時刻表−複刻再現版
  5. 前掲.汽車汽船旅行案内 明治37年7月号.p51
  6. 呉市史編纂委員会編.呉市史第7巻.呉,呉市役所,1993,p996-997
  7. 逓信省告示第六百五十七號.官報 第六千三百二十三號.明治三十七年七月二十八日.(国立国会図書館デジタル化資料:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949642/2)