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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1974年(昭和49年)4月7日建立。 合祀者941柱(1)

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重巡最上戦没者慰霊碑

重巡最上戦没者慰霊碑

重巡最上戦没者慰霊碑

碑文

重巡最上戦没者慰霊碑

慰霊碑裏面
重巡最上戦没者慰霊碑

重巡最上について

同型艦「三隈」完成時
同型艦「三隈」完成時

最上型巡洋艦の1番艦である。 最上型はロンドン海軍軍縮条約下で建造されたが、このとき日本は重巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径15.5cm(6.1インチ)超、20.3cm(8インチ)以下)の保有枠を使い切っており、備砲口径15.5cmの軽巡洋艦として建造し、有事の際には20.3cm砲に換装する計画とした。 しかしながら、軽巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径12.7cm(5インチ)超、15.5cm(6.1インチ)以下)の保有枠を使っても単艦排水量を8,500トンとせざるを得ず、きわめて無理のある設計となった。

建造中に友鶴事件が発生したため、艦橋の小型化、バラスト搭載などの重心低下のための改正が実施されたが、「最上」が公試運転に入ると他の欠陥が露呈された。 船体振動により推進器付近の外板および肋材に亀裂が発生、艦首外板に皺が発生、3番砲塔の旋回困難などの事故が起こった。 これに対して船体の補強が実施されたため新造時の基準排水量は11,200トンに増加した。 さらに就役直後の1935年(昭和10年)9月に「三隈」とともに、第四艦隊事件に遭遇した。 他艦に比べて「最上」と「三隈」の損害は軽かったが、最上では艦首外板にふたたび皺が生じた。 このため、最上に対する性能改善工事が1936年(昭和11年)4月〜1938年(昭和13年)2月にかけて呉工廠で実施された。 ロンドン海軍軍縮条約破棄後、計画通りに20.3cm砲に換装されることとなり、1939年(昭和14年)11月〜1940年(昭和15年)4月に呉工廠で施工された。

「最上」1944年時
「最上」1944年時

開戦後は、マレー、蘭印、ビルマ、ジャワ島、ベンガル湾掃討作戦に参加した。 1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦で、「三隈」と共同でアメリカ重巡洋艦「ヒューストン(Houston)」およびオーストラリア軽巡洋艦「パース (Perth)」を撃沈した。 6月に参加したミッドウェー海戦では「三隈」と衝突し中破、退避中に艦上機の攻撃により命中弾5発をうけ大破した。 この損傷復旧時に、後部主砲塔2基を撤去して航空甲板を設置、水上偵察機11機を搭載する航空巡洋艦となった。

1943年(昭和18年)4月30日に改造完成後、トラックに進出してラバウル、ブラウン輸送に従事した。 1944年(昭和19年)6月にマリアナ沖海戦に参加、10月の比島沖海戦には第一遊撃部隊支隊(西村艦隊)として参加したが、スリガオ海峡で被弾被雷後、ミンダナオ沖で被爆大破し、雷撃処分された。(2)(3)

艦名

艦名は河川名。 最上川は、山形県米沢市と福島県北塩原村の境にある西吾妻山にその源を発し、幾つもの渓流を合わせながら、米沢市の中心を北に流下し、荒砥狭窄部や三難所のある大淀狭窄部、最上峡を抜け、酒田市地先で、日本海に注ぐ、幹川流路延長 229km、流域面積 7,040km2の河川である。  富士川、球磨川とならび日本三大急流の一つに数えられている。(4)

要目(3)(5)(6)

新造時1939年主砲換装後1943年航空巡洋艦改装時
艦種二等巡洋艦
建造所呉海軍工廠
基準排水量 ※111,200トン12,400トン12,300トン
公試排水量 ※214,146トン14,142トン
垂線間長189.0m
水線長197.0m198.3m198.3m
最大幅18.45m20.51m
喫水6.15m6.10m6.10m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力152,000馬力152,432馬力(公試)152,000馬力
速力35.96ノット(公試)34.74ノット(公試)35.0ノット
燃料重油:2,280トン重油:2,281トン
航続力14ノットで8,000浬14ノットで8,000浬14ノットで7,700浬
装甲水線100mm、甲板35mm
兵装60口径三年式15.5cm3連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九三式13mm連装機銃2基
九〇式61cm3連装発射管4基
九〇式魚雷24本
50口径三年式二号20cm連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm3連装機銃4基
九三式13mm連装機銃2基
九〇式61cm3連装発射管4基
九三式魚雷18本
50口径三年式二号20cm連装砲3基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm3連装機銃10基
九六式25mm単装機銃18基
九〇式61cm3連装発射管4基
九三式魚雷18本
射出機呉式二号五型2基呉式二号五型2基呉式二号五型2基
航空機水上偵察機3機(定数)水上偵察機3機(定数)水上偵察機11機(定数)
乗員930名
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)

年月日履歴
1931年(昭和6年)10月7日呉海軍工廠において起工。
1934年(昭和9年)3月14日進水。
1935年(昭和10年)7月28日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1935年(昭和10年)11月15日第二予備艦となる。
1936年(昭和11年)4月1日第三予備艦となる。
1937年(昭和12年)9月1日第二予備艦となる。
1938年(昭和13年)12月15日第三予備艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日特別役務艦となり、15.5cm3連装砲塔から20.3cm連装砲塔への換装に着手。
1940年(昭和15年)5月1日第二艦隊第七戦隊に編入。
1941年(昭和16年)1月23日呉発。
1941年(昭和16年)1月29日海南島三亜着。 対仏印威力顕示作戦を支援。
1941年(昭和16年)2月18日三亜発。
1941年(昭和16年)2月20日馬公着。
1941年(昭和16年)2月21日馬公発。
1941年(昭和16年)2月23日中城湾着。
1941年(昭和16年)2月26日中城湾発。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)3月7日高雄発。
1941年(昭和16年)3月11日有明湾着。
1941年(昭和16年)3月28日有明湾発。
1941年(昭和16年)3月29日呉着。
1941年(昭和16年)4月4日呉工廠に入渠。
1941年(昭和16年)4月11日呉工廠を出渠。
1941年(昭和16年)5月15日呉発。
1941年(昭和16年)5月17日伊勢湾着。
1941年(昭和16年)5月21日伊勢湾発。
1941年(昭和16年)5月22日三河湾着。
1941年(昭和16年)6月3日三河湾発。
1941年(昭和16年)6月6日別府着。
1941年(昭和16年)6月10日別府発。
1941年(昭和16年)6月12日宿毛湾着。
1941年(昭和16年)6月19日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)6月23日有明湾着。
1941年(昭和16年)6月27日有明湾発。
1941年(昭和16年)6月30日横須賀着。
1941年(昭和16年)7月8日横須賀発
1941年(昭和16年)7月12日呉着。
1941年(昭和16年)7月16日呉発。 南部仏印進駐作戦を支援。
1941年(昭和16年)7月22日三亜着。
1941年(昭和16年)7月25日三亜発。
1941年(昭和16年)7月31日サイゴン沖発。
1941年(昭和16年)8月20日呉着。
1941年(昭和16年)9月8日呉工廠に入渠。
1941年(昭和16年)9月13日呉工廠を出渠。
1941年(昭和16年)9月16日呉発。 同日、室積沖着。
1941年(昭和16年)10月14日室積沖発。
1941年(昭和16年)10月15日佐伯湾着。
1941年(昭和16年)10月19日佐伯湾発。
1941年(昭和16年)10月20日別府着。
1941年(昭和16年)10月23日別府発。 同日、宿毛湾着。
1941年(昭和16年)11月1日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)11月2日有明湾着。
1941年(昭和16年)11月9日有明湾発。
1941年(昭和16年)11月10日宿毛湾着。
1941年(昭和16年)11月12日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)11月13日柱島着。
1941年(昭和16年)11月15日柱島発。
1941年(昭和16年)11月16日呉着。
1941年(昭和16年)11月20日呉発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜に進出。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 マレー上陸作戦を支援。
1941年(昭和16年)12月20日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月22日カムラン湾発。 クチン攻略作戦を支援。
1941年(昭和16年)12月29日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月23日カムラン湾発。 エンドウ上陸作戦を支援。
1942年(昭和17年)1月24日サンジャック入泊。 待機。
1942年(昭和17年)1月27日サンジャック発。
1942年(昭和17年)1月28日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)2月10日カムラン湾発。 バンカ、パレンバン上陸作戦を支援。
1942年(昭和17年)2月17日アナンバス着。
1942年(昭和17年)2月24日ジャワ攻略作戦支援のため出撃。
1942年(昭和17年)3月1日バタビア沖海戦に参加。 三隈と共同でアメリカ重巡洋艦「ヒューストン (Houston) 」、オーストラリア軽巡洋艦「パース (Perth) 」を撃沈。
1942年(昭和17年)3月5日シンガポール着。
1942年(昭和17年)3月9日シンガポール発。 北部スマトラ作戦支援。
1942年(昭和17年)3月15日シンガポール着。 同日、シンガポール発。 アンダマン、ビルマ作戦支援。
1942年(昭和17年)3月26日メルギー着。
1942年(昭和17年)4月1日メルギー発。 ベンガル湾機動作戦に従事。
1942年(昭和17年)4月6日三隈、天龍と共同で、ベンガル湾において商船5隻を撃沈。
1942年(昭和17年)4月11日シンガポール着。
1942年(昭和17年)4月13日シンガポール発。 内地に向かう。
1942年(昭和17年)4月22日呉着。 戦備作業。
1942年(昭和17年)5月4日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)5月12日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)5月20日ミッドウェー攻略部隊支援隊となる。
1942年(昭和17年)5月22日柱島発。 グアムに向かう。
1942年(昭和17年)5月26日グアム着。
1942年(昭和17年)5月28日グアム発。 ミッドウェーに向かう。
1942年(昭和17年)6月5日三隈と衝突中破。
1942年(昭和17年)6月7日艦上機の攻撃により命中弾5発。 大破。
1942年(昭和17年)6月14日トラック着。 応急修理。
1942年(昭和17年)7月14日第三艦隊第七戦隊となる。
1942年(昭和17年)7月22日応急修理完成。
1942年(昭和17年)8月5日トラック発。
1942年(昭和17年)8月11日佐世保着。
1942年(昭和17年)5月25日呉鎮守府予備艦(特別役務艦)となる。
1942年(昭和17年)9月1日佐世保工廠に入渠。 損傷修理とともに、航空巡洋艦への改造に着手。
1943年(昭和18年)4月30日改造完成。
1943年(昭和18年)5月1日佐世保発。
1943年(昭和18年)5月2日柱島着。 訓練に従事。
1943年(昭和18年)5月17日第二艦隊第七戦隊に編入。
1943年(昭和18年)5月20日徳山発。
1943年(昭和18年)5月21日横須賀着。 対北方作戦待機。
1943年(昭和18年)5月31日横須賀発。
1943年(昭和18年)6月2日柱島着。 訓練に従事。
1943年(昭和18年)6月10日第三艦隊第七戦隊となる。
1943年(昭和18年)7月8日呉発。 同日、宇品着。 陸軍人員物件搭載。
1943年(昭和18年)7月10日八島沖発。
1943年(昭和18年)7月15日トラック着。
1943年(昭和18年)7月19日トラック発。 陸軍人員物件輸送。
1943年(昭和18年)7月21日ラバウル着。 輸送物件揚陸。
1943年(昭和18年)7月24日ラバウル発。
1943年(昭和18年)7月26日トラック着。 訓練、警泊。
1943年(昭和18年)9月18日トラック発。
1943年(昭和18年)9月20日ブラウン着。
1943年(昭和18年)9月23日ブラウン発。
1943年(昭和18年)9月25日トラック着。
1943年(昭和18年)10月17日トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。
1943年(昭和18年)10月23日ブラウン発。
1943年(昭和18年)10月28日トラック着。
1943年(昭和18年)11月3日トラック発。
1943年(昭和18年)11月5日ラバウル着。
1943年(昭和18年)11月5日ラバウル発。 ラバウル沖で被爆小破。 トラックに回航。
1943年(昭和18年)11月8日トラック着。 工作艦明石に横付けして修理。
1943年(昭和18年)12月16日トラック発。 内地へ回航。
1943年(昭和18年)12月21日呉着。
1943年(昭和18年)12月22日呉工廠に入渠。
1944年(昭和19年)1月1日第三艦隊付属となる。
1944年(昭和19年)2月17日呉工廠を出渠。
1944年(昭和19年)3月8日呉発。 人員、軍需品輸送に従事。
1944年(昭和19年)3月15日シンガポール着。
1944年(昭和19年)3月16日リンガ泊地へ回航。
1944年(昭和19年)5月11日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)5月14日タウイタウイ泊地着。
1944年(昭和19年)6月13日タウイタウイ泊地発。
1944年(昭和19年)6月14日ギマラス着。
1944年(昭和19年)6月15日ギマラス発。
1944年(昭和19年)6月19日マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月22日中城湾着。
1944年(昭和19年)6月23日中城湾発。
1944年(昭和19年)6月24日柱島着。
1944年(昭和19年)7月8日呉発。 人員、軍需品輸送に従事。
1944年(昭和19年)7月20日沖縄、マニラをへてリンガ泊地着。 訓練に従事。
1944年(昭和19年)10月18日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日ブルネイ泊地着。
1944年(昭和19年)10月22日ブルネイ泊地発。 第一遊撃部隊支隊(西村艦隊)として、スリガオ海峡に向かう。
1944年(昭和19年)10月25日スリガオ海峡で被弾被雷。 ミンダナオ沖で被爆大破。 雷撃処分。
1944年(昭和19年)12月20日除籍

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p53
  2. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p84,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 12巻 重巡最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩.東京,光人社,1997,p23-29
  4. 日本の川 - 東北 - 最上川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0211_mogami/0211_mogami_00.html.2021年2月12日確認
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p40
  6. 福井静夫.海軍艦艇史(2)巡洋艦・コルベット・スループ.東京,ベストセラーズ,1980,p457-459
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 12巻 重巡最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩.p44

謝辞

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