1972年(昭和47年)8月10日建立。 合祀者117柱。(1)
第二号型海防艦
「第八十二号」海防艦は第二号型海防艦の1艦である。
日本海軍の海防艦は、昭和初期までは旧式となった戦艦、巡洋艦などが、この艦種に充当されており、軍艦に類別されていた。 日本海軍が海防艦の新造計画を持ったのは1931年(昭和6年)の第一次補充計画が最初で、従来と異なる北方警備用の小型艦(1,200トン級)であった。 しかし、このときは予算が成立せず、1937年(昭和12年)の第三次補充計画にいたって、ようやく建造された。 このとき建造されたのが占守型海防艦で1941年(昭和16年)3月までに4隻が竣工した。 主要目は基準排水量860トン、速力19.7ノット、12cm単装砲3基、爆雷投射機1基、爆雷18個で、北方行動用に補助缶を装備していた。
開戦直前に、この種の護衛艦不足に気付いた日本海軍は、昭和16年度戦時建造計画(マル急計画:○の中に急)で30隻の海防艦を計画した。 このうち14隻が擇択型で、占守型をわずかに改正し、艦橋、上構、艦首尾の直線化、爆雷搭載数の増加(18個→36個)等を実施したものであったが、北方行動用に補助缶は残された。 本型の対潜・対空能力は、その後の戦況を考えると不十分なものであった。 マル急計画で計画された残りの16隻は、擇択型をさらに改設計した御蔵型である。 主砲を12cm高角砲3門(連装1基、単装1基)に改め、爆雷投射機を2基、爆雷搭載数を120個として、対潜・対空能力を強化したものであった。また、北方行動用の補助缶も廃止されている。 しかしながら、船体の簡素化は徹底しておらず、量産性に欠けるものであった。 このため、御蔵型の建造は8隻で打ち切られ、鵜来型の建造に移行した。
鵜来型においては、船型、艤装の徹底的な簡素化を実施し、曲線部分を平面化した設計を行った。 また、電気溶接を大幅に用い、ブロック建造法を採用、これにより平均建造期間が御蔵型の9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。 兵装面では、掃海具を装備せず、従来の爆雷投射機を2基に加え三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、対潜攻撃能力を大幅に向上させている。 尚、計画艦のうち9隻は御蔵型と同様の爆雷装備とした日振型として完成している。
1943年(昭和18年)に入って船舶被害が増大すると、海防艦の増勢が求められた。 これにより従来艦よりも量産性の高い艦が必要とされ、第一号型と第二号型海防艦が計画された。 艦型を小型化かつ簡略化し、兵装は12cm単装高角砲2基、三式爆雷投射機を片舷6基(計12基)と減少したが、爆雷搭載数は120個のままとしている。 機関は第一号型は艦本式23号乙8型ディーゼル機関2基としたが、第二号型では機関の製造能力の問題から、航続力の低下をしのびホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基と艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基とされた。(2)
新造時 | |
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艦種 | 海防艦 |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
基準排水量 ※1 | 740トン |
公試排水量 ※2 | 900トン |
垂線間長 | 65.00m |
水線長 | 68.00m |
水線最大幅 | 8.60m |
喫水 | 3.05m |
主機 | 艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基、1軸 |
主缶 | ホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基 |
出力 | 2,500馬力 |
速力 | 17.5ノット |
燃料 | 重油:240トン |
航続力 | 14ノットで4,500浬 |
乗員 | 141名 |
兵装 | 45口径十年式12cm単装高角砲2基 九六式25mm3連装機銃2基 九六式25mm単装機銃4基 三式爆雷投射機12基 爆雷投下軌条1基 二式爆雷120個 |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1944年(昭和19年)9月6日 | 三菱重工業長崎造船所において起工。 |
1944年(昭和19年)11月18日 | 進水。 |
1944年(昭和19年)12月31日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1945年(昭和20年)1月3日 | 佐世保発。 |
1945年(昭和20年)1月4日 | 佐伯着。 訓練開始。 |
1945年(昭和20年)2月1日 | 佐伯発。 豊後水道南方行動。 |
1945年(昭和20年)2月15日 | 第一護衛艦隊付属。 |
1945年(昭和20年)2月16日 | 門司発。 モタ38船団と基隆に向かう。 泗礁山泊地に仮泊 |
1945年(昭和20年)2月21日 | 泗礁山発。 |
1945年(昭和20年)2月23日 | 基隆着。 |
1945年(昭和20年)3月3日 | 基隆発。 タモ47船団と門司に向かう。 |
1945年(昭和20年)3月5日 | 泗礁山着。 |
1945年(昭和20年)3月6日 | 1435船団と泗礁山発。 |
1945年(昭和20年)3月11日 | 六連着。 |
1945年(昭和20年)3月12日 | 呉に回航。 整備修理、休養。 |
1945年(昭和20年)3月26日 | 呉発。 門司に回航。 待機。 |
1945年(昭和20年)4月1日 | 門司発。 済州島兄弟島を停泊地として対潜掃蕩に従事。 |
1945年(昭和20年)4月25日 | 第百二戦隊に編入。 |
1945年(昭和20年)6月1日 | 山東半島石島湾着。 待機。 |
1945年(昭和20年)6月11日 | 石島湾発。 船団を護衛して門司に向かう。 |
1945年(昭和20年)6月17日 | 船団と六連着ののち、佐世保に回航、入渠修理。 |
1945年(昭和20年)7月5日 | 第百二戦隊は解隊。 第二海防隊に編入。 |
1945年(昭和20年)7月15日 | 佐世保発。 対馬・浅茅湾着、待機。 |
1945年(昭和20年)8月1日 | 隠岐の島着。 仮泊待機。 |
1945年(昭和20年)8月5日 | 隠岐の島発。 船団を護衛して元山に向かう。 |
1945年(昭和20年)8月6日 | 元山着 |
1945年(昭和20年)8月8日 | 元山発。 同日、城津着。 |
1945年(昭和20年)8月9日 | 城津発。 陸軍船遭難者救助に向かう。 |
1945年(昭和20年)8月10日 | 清津南方の大良化仮泊地発。 羅津に進出。 命令により船団を護衛して元山に退避中、城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没。 |
1945年(昭和20年)8月11日 | 向日丸(むかひまる)[註]に救助された生存者94名は、城津に上陸。 戦傷7名を残し、87名は陸路移動、14日京城着。 |
1945年(昭和20年)8月15日 | 乗員87名は陸路南下、のちに呉帰着、復員。 |
1945年(昭和20年)9月15日 | 除籍。 |
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