1980年(昭和55年)5月11日建立。 合祀者23柱。(1)
陽炎型駆逐艦
「陽炎」は陽炎型駆逐艦の1番艦である。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかれて漸減させる作戦を打ち出した。 日本海軍は艦隊型大型駆逐艦として吹雪型(特型)駆逐艦を1928年(昭和3年)〜1933年(昭和8年)に24隻竣工させた。 しかしながら、1930年(昭和5年)のロンドン条約により、駆逐艦の保有量を対米英比率7割とされ、個艦排水量などにも制限がかけられた。 このため日本海軍は、次の初春型では基準排水量1,400トンとし、兵装は吹雪型とほぼ同等という設計とした。 初春型は友鶴事件の発生により復原力の根本的改正を余儀なくされ、この結果、兵装は削減(魚雷発射管3連装3基→2基)され、速力も大幅に低下(約3ノット)した。 つづく白露型では、基準排水量1,685トンとし、主砲は性能改善後の初春型と同等としたが、魚雷発射管は4連装2基8射線とした。 航続力は18ノットで4,000浬と前級の14ノット時の値を維持したが、速力(34ノット)とともに、用兵側の満足は得られなかった。
白露型の兵装、速力、航続力では不十分であると判断され、次の朝潮型では1937年(昭和12年)以降の条約破棄を前提に、基準排水量を1,961トンにまで増大し、速力35ノット、航続力18ノットで4,000浬、12.7cm連装砲3基、魚雷発射管は4連装2基の計画とした。 計画中の1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等により、基準排水量は2,000トンとなった。 朝潮型は兵装面では吹雪型(特型)に匹敵し、復原性能と船体強度に関しても十分なものであったが、速力と航続力において性能不足が指摘されていた。
朝潮型の次に計画された陽炎型は、速力と航続力の増大を望まれたが、艦型が過大とならないよう、速力を35ノットに抑え、航続力を18ノットで5,000浬とした。 本型の艦型は、朝潮型とほぼ同等であるが、友鶴事件および第四艦隊事件の教訓を始めから織り込んだ新設計であった。 兵装は朝潮型と同等としたが、魚雷に関しては新造時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した。 本型の完成により、艦隊型大型駆逐艦の航続力に対する要求は達成され、次級の夕雲型とともに開戦時から中盤までの主力駆逐艦として活躍した。
「陽炎」は開戦時には第18駆逐隊に属し、ハワイ作戦に参加した。 1942年(昭和17年)に入ると機動部隊とともにラバウル攻撃、ポートダウィン攻撃、セイロン沖海戦に参加した。 6月のミッドウェー作戦には攻略部隊の護衛として参加した。 7月20日、「陽炎」は第2第15駆逐隊に編入された。 これはアリューシャン方面作戦に従事中の第18駆逐隊の僚艦3隻がアメリカ潜水艦「グロウラー(Growler)」の雷撃により「霰」沈没、「不知火」、「霞」大破の損害を受け壊滅したためである。 8月にガダルカナル戦が始まると、同島への輸送任務に従事、11月には第三次ソロモン海戦およびルンガ沖夜戦に参加した。 1943年(昭和18年)1月にはガダルカナル島撤収作戦支援に従事、4月からはムンダおよびコロンバンガラへの輸送に従事していた。 5月8日、コロンバンガラへ輸送の帰途、同島南岸西方で僚艦「黒潮」、「親潮」とともに触雷。 航行不能となった「陽炎」はアメリカ海兵隊機の爆撃を受け沈没した。(2)(3)
艦名は気象。 春のうららかな日に、野原などにちらちらと立ちのぼる気。 また、はかないもの、ほのかなもの、あるかなきかに見えるもの、などを形容するのにも用いる。(4) 夢よりもはかなきものはかけろふのほのかに見えしかけにそありける(読人不知/拾遺集)
新造時 | |
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艦種 | 一等駆逐艦 |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 ※1 | 2,000トン |
公試排水量 ※2 | 2,500トン |
垂線間長 | 111.00m |
水線長 | 116.20m |
全長 | 118.5m |
水線最大幅 | 10.80m |
喫水 | 3.76m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)3基 |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン2基 |
推進器軸 | 2軸 |
出力 | 52,000馬力 |
速力 | 35.0ノット |
燃料 | 重油:622トン |
航続力 | 18ノットで5,000浬 |
兵装 | 50口径三年式12.7cm連装砲C型3基 九六式25mm連装機銃2基 61cm九二式4連装発射管二型2基 九三式魚雷16本 |
乗員 | 239名 |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1937年(昭和12年)9月3日 | 舞鶴海軍工廠において起工。 |
1938年(昭和13年)9月27日 | 進水。 |
1939年(昭和14年)11月6日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 第十八駆逐隊に編入。 |
1941年(昭和16年)11月26日 | 単冠湾発。 ハワイ作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)1月6日 | 岩国沖発。 ラバウル攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)3月17日 | 横須賀発。 |
1942年(昭和17年)3月26日 | スターリング湾発。 セイロン作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)4月23日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)5月19日 | 横須賀発。 |
1942年(昭和17年)5月28日 | サイパン発。 ミッドウェー攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月23日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)7月9日 | 横須賀発。 キスカに向かう「君川丸」を護衛。 |
1942年(昭和17年)7月15日 | 第二艦隊第二水雷戦隊第十五駆逐隊に編入。 |
1942年(昭和17年)8月11日 | 横須賀発。 |
1942年(昭和17年)8月18日 | 陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸。 |
1942年(昭和17年)8月13日 | ガダルカナル島輸送に13回従事。 |
1942年(昭和17年)9月22日 | ショートランドで敵機の攻撃をうけ小破。 |
1942年(昭和17年)11月14日 | 第三次ソロモン海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)11月18日 | ブナ輸送作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)11月30日 | ルンガ沖夜戦に参加。 |
1942年(昭和17年)12月15日 | ムンダ基地に陸兵および基地物件輸送。 |
1943年(昭和18年)1月31日 | ガダルカナル島撤収作戦支援。 |
1943年(昭和18年)2月21日 | 呉着。 |
1943年(昭和18年)3月22日 | 呉発。 |
1943年(昭和18年)4月28日 | ムンダ輸送作戦に3回従事。 |
1943年(昭和18年)5月8日 | コロンバンガラ輸送の帰途、同島南岸西方で触雷。 航行不能となった後、アメリカ海兵隊機の爆撃を受け沈没。 |
1943年(昭和18年)6月20日 | 除籍。 |
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