巡潜乙型(伊15型)
伊号第三十三潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の13番艦である。
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 乙型(伊十五型) |
建造所 | 三菱重工業神戸造船所 |
水上排水量 ※1 | 2,198トン(基準)/2,584トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 3,654トン |
垂線間長 | 102.40m |
全長 | 108.70m |
最大幅 | 9.30m |
喫水 | 5.14m |
主機 | 艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 特5型2基 |
蓄電池 | 2号5型×240 |
出力 | 12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中) |
速力 | 23.6ノット(水上)/8ノット(水中) |
燃料 | 重油:774トン |
航続力 | 16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中) |
乗員 | 94名 |
兵装 | 40口径十一年式14cm単装砲1基 九六式25mm連装機銃1基 九五式53cm魚雷発射管6門(艦首) 九五式魚雷17本 |
射出機 | 呉式一号四型1基 |
航空機 | 水上偵察機1機 |
安全潜航深度 | 100m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1940年(昭和15年)2月21日 | 第百四十六号艦として、三菱重工業神戸造船所において起工。 |
1941年(昭和16年)3月25日 | 伊号第四十一潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 |
1941年(昭和16年)5月1日 | 進水。 |
1941年(昭和16年)11月1日 | 伊号第三十三潜水艦と改名。 |
1942年(昭和17年)6月10日 | 竣工、儀装見事務所を撤去。 本籍を呉鎮守府と定める。 第十五潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に加える。 戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。 神戸発、呉に回航。 司令潜水艦を伊号第三十二潜水艦から当艦に変更。 |
1942年(昭和17年)6月12日 | 呉に入港、以後、内海西部において訓練。 |
1942年(昭和17年)7月 | 第一潜水部隊は、8月中旬以降、インド洋方面の作戦を予定。 |
1942年(昭和17年)8月8日 | アメリカ軍のソロモン反攻により、第一潜水部隊は、急速出撃準備を15日までに完成、南東方面部隊の作戦支援を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月12日 | 元山航空隊機が本州東方洋上においてアメリカ軍の不時着水偵を発見、アメリカ機動部隊を警戒のため、第一潜水部隊は急遽出撃、東方海面に進出を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月15日 | 第一潜水部隊と呉発、東京湾東方に向かい索敵掃航したが、夕刻、東進は中止を下令され、ソロモン諸島海域に向かう。 |
1942年(昭和17年)8月20日 | 第一潜水部隊とA散開線(南緯7度40分、東経165度〜南緯9度40分、東経163度20分)に配備を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月23日 | 第一潜水部隊とC散開線(南緯7度40分、東経164度〜南緯12度40分、東経162度20分)に配備を下令され、次いで、24日黎明時までにD散開線(南緯12度20分、東経164度40分〜南緯12度20分、東経162度20分)に配備の移動を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月24日 | 第一潜水部隊とD散開線に向かい掃航南下中、16:50、E散開線(南緯9度20分、東経165度06分〜南緯10度20分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。 部隊の僚艦が同夜、敵機動部隊を発見したため、部隊と同夜、進路180度、最大速力での追撃を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月25日 | 第一潜水部隊と、17:20、戦場整理のため、日没に至るも敵情を得ない場合は、E2散開線(南緯10度10分、東経164度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月26日 | 南東方面部隊の現地潜水部隊の統一指揮官は、旗艦潜水艦が被爆離脱のため、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 |
1942年(昭和17年)8月27日 | 第一潜水部隊と、17:20、戦場整理のため、日没に至るも敵情を得ない場合は、E2散開線(南緯10度10分、東経164度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。 E2散開線に到着、索敵。 |
1942年(昭和17年)8月28日 | 伊号第十五潜水艦が、21:00、南緯11度28分、東経163度55分において、南下中の敵機動部隊を発見。 極力敵の前程に出て攻撃するよう下令されたが、発見できなかった。 |
1942年(昭和17年)8月29日 | 再びE2散開線に戻り、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)8月31日 | 第一潜水部隊と、19:30、G散開線(南緯10度08分、東経164度52分〜南緯10度40分、東経164度)に配備の変更を下令され、移動。 |
1942年(昭和17年)9月4日 | 第一潜水部隊と、G1散開線に配備を下令され、60浬南下、移動。 |
1942年(昭和17年)9月6日 | 南東方面部隊の現地潜水部隊の統一指揮官は、第三潜水戦隊司令官から 第一潜水戦隊司令官となる。 旗艦潜水艦を変更して再進出。 第一潜水部隊と、G2散開線に配備を下令され、更に60浬南下、移動。 |
1942年(昭和17年)9月8日 | 伊号第三十一潜水艦と、J散開線(南緯12度20分、東経165度〜南緯13度10分、東経162度42分)に配備を下令され、移動。 |
1942年(昭和17年)9月9日 | 伊号第三十一潜水艦と、J散開線に到着、索敵。 |
1942年(昭和17年)9月13日 | 索敵機がツラギの123度345浬に敵機動部隊を発見。 攻撃に急行を下令される。 次いで、第一潜水部隊と、K散開線(南緯11度40分、東経165度40分〜南緯13度、東経163度20分)に配備を下令される。 |
1942年(昭和17年)9月14日 | 第一潜水部隊と、K散開線に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)9月15日 | 索敵機が、南緯12度05分、東経161度25分において、敵輸送船団を発見。 部隊と攻撃のため、300度方向に進撃を下令され、移動。 第一潜水部隊は、先遣部隊第二監視部隊(第一潜水戦隊)に編入、インディスペンサブル海峡南方に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。 |
1942年(昭和17年)9月16日 | 第一潜水部隊と、インディスペンサブル海峡南方に到着、索敵哨戒。 第一潜水部隊と、Y日(19日の予定)航空撃滅戦に策応し、ソロモン諸島南東海面の索敵掃航を下令される。 |
1942年(昭和17年)9月18日 | 第一潜水部隊と、南下、索敵掃航。 |
1942年(昭和17年)9月20日 | 「日進」による輸送作戦の中止により、補給整備のため、約一週間の予定で、トラックに帰投を下令される。 第一潜水部隊と、インディスペンサブル海峡南方の配備に復帰したのち、解列してトラックに向かう。 |
1942年(昭和17年)9月25日 | トラックに帰着、整備休養。 |
1942年(昭和17年)9月26日 | 9:23、特設工作艦「浦上丸」に横付け、発射管修理のため作業中、艦尾から浸水。 急速沈下、約2分間で沈没。 原因はハッチを開放したまま、艦に仰角をかけるため、メインタンクに注水後、ハッチから艦内に浸水。 「浦上丸」から吊り下げたロープを切断。 水深36mに沈没。 14:20、機関室から感あり、16:00以降は応答なし。 第十五潜水隊司令、潜水艦長、水雷長等は「浦上丸」にて打合せ中、下士官兵は半舷上陸中のことで、航海長以下33名が殉職。 |
1942年(昭和17年)9月 | 在トラックの連合艦隊司令長官は、「大和」艦長高柳儀八少将を委員長とする査問委員会をつくり、原因の究明に当たる。 |
1942年(昭和17年)10月1日 | トラックにおいて、艦体の引き揚げを決定される。 |
1942年(昭和17年)10月2日 | 第四艦隊司令長官は、艦の引き揚げを下令。 艦内にいた乗員33名は、殉職と認定。 各一階級進級。 |
1942年(昭和17年)10月4日 | 先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官)に編入、引き揚げののち、内地に曳航、修理整備を下令される。 |
1942年(昭和17年)10月6日 | 第十五潜水隊司令は司令潜水艦を当艦から伊号第三十一潜水艦に変更。 |
1942年(昭和17年)11月10日 | 予備潜水艦を第四予備潜水艦に定める。 第十五潜水隊から除く。 |
1943年(昭和18年)1月19日 | トラック泊地において引き揚げられ、艦内整理に当たる。 |
1943年(昭和18年)3月2日 | 特設運送船「日豊丸」に曳航され、トラック発。特設砲艦「平壌丸」、同「長運丸」ほかの護衛で、呉に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月18日 | 曳航されて呉に帰着、以後、呉工廠において入渠修理。 |
1944年(昭和19年)4月1日 | 第四予備潜水艦を第一予備潜水艦に定める。 |
1944年(昭和19年)6月1日 | 第十一潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 再就役、戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水戦隊(第十一潜水部隊)に編入され、内海西部において再就役の訓練に従事。 |
1944年(昭和19年)6月7日 | 呉発、伊予灘に向かう。 |
1944年(昭和19年)6月13日 | 郡中発、由利島南方に向かい、単独訓練。 潜航を繰り返したのち、8:30頃、由利島の325度4,500mにおいて、三直配備から急速潜航訓練に入ったが、機械室から浸水の報告があり、急速排水の手段を講じたが、司令塔のほかは浸水した模様で、着底した。 9:00頃、潜水艦長の命令で司令塔から脱出した者は約10名。 うち乗組の小西少尉以下3名が、漁船に救助されたが、うち下士官1名は死亡。 事故は、付近の松山航空隊に通報され、同隊の飛行機救難船が出動したほか、第十一潜水戦隊旗艦「長鯨」および特設潜水母艦「筑紫丸」が出動、捜索に当たる。 |
1944年(昭和19年)6月14日 | 伊号第三百六十一潜水艦が、由利島の180度以東5浬の捜索を下令される。 艦の沈没位置が発見され、潜水夫による調査で、艦内に生存者がいないことが、確認された。 潜水艦長以下101名が殉職と認定される。 |
1944年(昭和19年)6月 | 海軍大臣は、第十一潜水戦隊司令官石崎昇少将を委員長として、査問委員会を設置。 沈没原因の究明を命じた。 潜水夫による調査の結果、修理用材料の丸太(直径20cm、長さ2m)が、頭部弁と弁座の間に挟まっているのが発見され、そのため弁が閉まらなかったのが原因と推定された。 |
1944年(昭和19年)7月10日 | 第四予備潜水艦と定める。 第十一潜水戦隊(第六艦隊)から除かれる。 |
1944年(昭和19年)8月10日 | 除籍。 |
1953年(昭和28年)4月5日〜 | 北星船舶工業により浮揚。 日立造船因島工場で解体。 |
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