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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第三十五潜水艦について

伊号第三十五潜水艦
巡潜乙型(伊15型)

伊号第三十五潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の15番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
建造所三菱重工業神戸造船所
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特5型2基
蓄電池2号5型×240
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1940年(昭和15年)9月2日第百四十八号艦として、三菱重工業神戸造船所において起工。 
1941年(昭和16年)9月10日伊号第四十五潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定される。 
1941年(昭和16年)9月24日進水。 
1941年(昭和16年)11月1日伊号第三十五潜水艦と改名。 
1942年(昭和17年)8月31日竣工。 本籍を呉鎮守府と定め、警備潜水艦と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 
1942年(昭和17年)9月1日呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入、内海西部において訓練に従事。 神戸発、呉に回航。 
1942年(昭和17年)9月2日呉に入港、以後 内海西部において訓練。 
1942年(昭和17年)11月15日呉鎮守府部隊から除かれる。 第五艦隊に編入。 戦時編制。 北方部隊潜水部隊(第五艦隊司令長官指揮)に編入、アリューシャン列島方面の作戦を下令される。 
1942年(昭和17年)11月28日呉発、大湊に向かう。 
1942年(昭和17年)12月1日大湊に到着、補給待機。 
1942年(昭和17年)12月2日大湊発、キスカ島に向かう。 
1942年(昭和17年)12月9日キスカ島着、同日発、アムタク島南方に向かう。 
1942年(昭和17年)12月12日アムタク島南20浬に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)12月15日撤収して、幌筵に向かう。 
1942年(昭和17年)12月20日幌筵に帰着、輸送準備。 
1942年(昭和17年)12月26日幌筵発、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月1日キスカ島着、輸送物件を揚陸、同日、アダック島北東に向かう。 
1943年(昭和18年)1月8日アッツ島に来襲した敵艦隊の攻撃を下令され、アダック島北東から、アッツ島北東の敵巡洋艦を攻撃に向かう。 
1943年(昭和18年)1月11日アッツ島沖に到着、索敵に当たったが、敵情なく。 アッツ島に入港連絡ののち、キスカ島南方に向かう。 
1943年(昭和18年)1月13日キスカ島南方に進出、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)1月18日キスカ島に入港、待機。 
1943年(昭和18年)1月19日キスカ島発、同島南方において索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)1月21日キスカ島南方を撤収、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)1月24日アムチトカ島方面の敵艦船攻撃を下令され、反転、同島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月30日コンスタンチン港外30浬に進出、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)2月1日北方部隊潜水部隊指揮官は、第十二潜水隊司令となる。 
1943年(昭和18年)2月13日アムチトカ島方面を撤収、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)2月15日14:00、キスカ島着、陸軍北海守備隊藤井少佐ほかを収容、17:00、キスカ島発、アッツ島に向かう。 
1943年(昭和18年)2月17日17:00アッツ島着、藤井陸軍少佐等を揚陸、14:05発横須賀に向かう。 
1943年(昭和18年)2月23日北方部隊潜水部隊指揮官は、第五艦隊司令長官となる。 
1943年(昭和18年)2月24日横須賀に帰着、入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)3月27日横須賀発、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)4月1日第五艦隊から除かれ、第十五潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 幌筵に到着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)4月3日17:00、幌筵発、第五十一根拠地隊参謀、陸軍北方軍参謀、陸軍北海守備隊第一地区隊長等を収容、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)4月9日17:00、キスカ島に到着、便乗者および糧食4トン等を揚陸、同日発、幌筵に向かう。 
1944年(昭和19年)4月13日幌筵に帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)4月18日1635、陸軍森田少佐ほかの便乗者および輸送物件を収容搭載して、幌筵発、アッツ島に向かう。 
1943年(昭和18年)4月21日アッツ島着、便乗者および糧食等を揚陸ののち、陸軍北方軍安藤参謀等を収容して、同日発、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)4月24日幌筵に帰着、帰還便乗者を揚陸、輸送準備。 
1943年(昭和18年)4月27日幌筵発、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)5月2日キスカ島着、弾薬・糧食等を揚陸、同日発、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)5月5日幌筵に帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月9日幌筵発、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)5月12日アメリカ軍がアッツ島に上陸。 先遣部隊は、速やかに潜水艦を同島方面に集中して、敵艦隊、輸送船の撃破を下令される。 キスカ島への輸送を取り止め、アッツ島に急行、ホルツ湾の敵艦船の攻撃を下令され、アッツ島に向かう。 
1943年(昭和18年)5月13日アッツ島沖に到着、索敵。 艦は敵哨戒機の爆撃を受けた。 
1943年(昭和18年)5月14日敵哨戒機の爆撃を受けた。 
1943年(昭和18年)5月15日北方部隊潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、敵退路遮断および敵艦隊攻撃を下令される。 艦は、アッツ島方面において索敵を続ける。 
1943年(昭和18年)5月16日0:37、アッツ島沖において敵軽巡洋艦を雷撃、魚雷2本命中と報告。 実際には、北緯53度06分、東経172度19分において、アメリカ巡洋艦「サンタフェ(SantaFe)」を雷撃したが、効果がなかった。 攻撃後、米駆逐艦2隻の爆雷攻撃を受け、損傷したため、撤収して、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)5月19日幌筵に帰着、応急修理。 
1943年(昭和18年)5月27日幌筵発、呉に向かう。 
1943年(昭和18年)6月2日呉に帰着、待機、休養。 
1943年(昭和18年)6月15日北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、内地において修理整備に従事。 
1943年(昭和18年)6月17日呉から神戸に回航、入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)7月11日司令潜水艦を伊号第三十二潜水艦から当艦に変更。 
1943年(昭和18年)8月11日司令潜水艦を当艦から伊号第三十二潜水艦に変更。 
1943年(昭和18年)9月3日準備出来次第、トラックに回航を下令される。 
1943年(昭和18年)9月18日呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)9月25日トラックに到着、補給待機。 
1943年(昭和18年)10月6日アメリカ機動部隊がウェーク島に来襲。 トラック発、ウェーク島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)10月7日]日(11日の予定)、ウェーク島南西200浬に進出、配備を下令される。 
1943年(昭和18年)10月16日丙作戦第五法警戒を下令される。 先遣部隊(第六艦隊)甲潜水部隊(第二潜水隊司令指揮)に編入、T散開線(北緯21度38分、東経171度02分〜北緯23度22分、東経169度58分)に配備を下令される。 
1943年(昭和18年)10月23日甲潜水部隊と25日以降、T散開線を撤収して、ハワイ方面に向かい、敵艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)10月25日甲潜水部隊と、T散開線を撤収して、ハワイ方面に向かう。 
1943年(昭和18年)11月13日甲潜水部隊は編成を解かれる。 艦は、カントン島、フナフチ島を経て、エスピリッサント島北西海面に進出、敵艦船攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)11月19日アメリカ機動部隊がギルバート諸島に来襲。 丙作戦第三法警戒を下令される。 先遣部隊(第六艦隊)甲潜水部隊(第二潜水隊司令指揮)に編入、ギルバート諸島に急行、来襲した敵艦船攻撃を下令される。 伊号第二十一潜水艦と、B散開線(南緯0度20分、東経173〜東経172度20分)に配備を下令される。 
1943年(昭和18年)11月20日丙作戦第三法用意を下令される。 23:00、タラワ島の南西70浬において、空母を含む敵大部隊を発見したが、攻撃の機会がなかった。 
1943年(昭和18年)11月21日アメリカ軍はタラワ、マキン両島に上陸。 丙作戦第三法発動を下令される。 タラワ島に急行を下令される。 20:55、タラワ島南西95浬において、アメリカ機動部隊を発見、攻撃行動中に爆雷攻撃を受け、一時舵が故障、のち復旧と報告。 
1943年(昭和18年)11月22日タラワ島南西内側B哨区に配備を下令される。 19:20、状況報告ののち、消息を絶つ。 タラワ島南沖(北緯1度22分、東経172度77分)でアメリカ駆逐艦「ミード(Meade)」が潜水艦の推進器音を聴取。アメリカ駆逐艦「フレイジャー(Frazier)」の爆雷攻撃を受け浮上後、砲撃と衝撃により沈没。 タラワで生存者2名がアメリカ軍の挿虜となり、22日沈没と証言。 
1943年(昭和18年)11月23日タラワ島北東内側A哨区に配備を下令される。 
1943年(昭和18年)11月28日引き続き、タラワ島付近に配備を下令される。 
1943年(昭和18年)11月30日タラワ環礁ペチオ島に接近、東西両端で対暗中の友軍の状況を偵察するよう下令される。 
1943年(昭和18年)12月2日点呼に応答なく、依然として消息不明。 
1943年(昭和18年)12月4日丙作戦第三法終結を下令される。 タラワ、マキン両島は陥落。 甲潜水部隊の編成をとかれ、先遣部隊第一潜水部隊に復帰、トラックに帰投を下令されたが、未帰還となる。 
1944年(昭和19年)1月10日ギルバート諸島方面で亡失認定。 
1944年(昭和19年)4月30日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p65,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p134
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p686-693

謝辞

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