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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第七十潜水艦について

伊号第七十潜水艦は海大6型a(伊六十八型)潜水艦の3番艦である。

要目(1)(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大6型a(伊六十八型)
建造所佐世保工廠
水上排水量 ※11,400トン(基準)/1,785トン(常備)
水中排水量 ※12,440トン
垂線間長98.40m
全長104.70m
最大幅8.20m
喫水4.58m
主機艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型2基
蓄電池
出力8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)
燃料重油:338トン
航続力10ノットで14,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中)
乗員68名
兵装50口径八八式10cm単装高角砲1基
保式13mm単装機銃1基
留式7.7mm単装機銃1基
八八式53cm魚雷発射管4門(艦首)
2門(艦尾)
魚雷14本
安全潜航深度70m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(5)

年月日履歴
1932年(昭和7年)12月20日伊号第七十潜水艦と命名。 
1933年(昭和8年)1月25日佐世保工廠において起工。 
1934年(昭和9年)6月14日進水。 
1935年(昭和10年)11月9日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 
1935年(昭和10年)11月15日艦は第十二潜水隊(第二潜水戦隊・第二艦隊)に加えられる。 
1936年(昭和11年)4月13日〜22日隊は戦隊と福岡湾から青島に向かい、寺島水道に帰着。 
1936年(昭和11年)8月4日〜6日隊は戦隊と馬公から履門に向かい、高雄に帰着。 
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾に帰着。 
1937年(昭和12年)7月15日〜17日第二艦隊は宿毛湾に帰着、待機後、別府に回航。 
1937年(昭和12年)7月21日第二艦隊は別府から佐世保に回航、補給待機。 
1937年(昭和12年)7月29日第二艦隊は北支部隊(第二艦隊)に編入、陸軍と協力して、居留民の保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保で待機を下令される。 
1937年(昭和12年)8月17日〜20日隊は旅順に回航を下令され、佐世保から旅順に進出。 
1937年(昭和12年)8月21日隊は旅順から裏長山列島に移り、待機。 
1937年(昭和12年)8月23日第二潜水戦隊は北支部隊(第二艦隊)主隊に編入、第二艦隊司令長官の直率下に、陸軍A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。 
1937年(昭和12年)8月25日部隊はA支隊の青島攻略作戦の取り止めを下令される。 
1937年(昭和12年)6月28日隊は裏長山列島から青島居留民引き揚げの支援に向かう。 
1937年(昭和12年)8月31日隊は撤収帰投を下令され、山東角付近から裏長山列島に向かう。 
1937年(昭和12年)9月1日〜2日隊は裏長山列島に帰着後、旅順に回航。 
1937年(昭和12年)9月3日第二潜水戦隊は4日以降、第十四師団の船団護衛を下令される。 
1937年(昭和12年)9月4日隊は旅順から、大沽向けの船団護衛に向かう。 
1937年(昭和12年)9月21日大連に帰着、待機。 
1937年(昭和12年)9月23日大連から旅順に回航、待機。 
1937年(昭和12年)9月24日第二潜水戦隊は北支部隊(第二艦隊)第一封鎖部隊(第二潜水戦隊)に編入、海州湾以北の沿岸の封鎖監視を下令される。 
1937年(昭和12年)10月1日〜7日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)10月13日〜19日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)10月25日〜31日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)11月3日〜8日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)11月13日〜18日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)11月19日隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かう。 
1937年(昭和12年)11月20日北支部隊(第二艦隊)は編成を解かれ、第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。 
1937年(昭和12年)11月24日隊は佐世保に帰着。 
1938年(昭和13年)4月9日〜14隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、基隆に到着。 
1938年(昭和13年)10月17日〜22日隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、馬公に到着。 
1938年(昭和13年)12月15日第十二潜水隊は第二潜水戦隊から除かれる。 第三予備潜水艦と定める。 
1939年(昭和14年)11月15日第十二潜水隊は第三潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 第三予備潜水艦を予備潜水艦と定める。 
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日隊は戦隊と中城湾から南支方面に向かい、高雄に到着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。
1940年(昭和15年)9月21日横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第六艦隊に編入。 
1941年(昭和16年)3月30日司令潜水艦を伊号第六十八潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)5月15日司令潜水艦を当艦から伊号第六十八潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)6月10日司令潜水艦を伊号第六十八潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)7月28日司令潜水艦を当艦から伊号第六十九潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、機動部隊(第一航空艦隊)の作戦に協力、ハワイ方面アメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の穏密偵察、機動部隊不時着機人員の収容を下令される。
1941年(昭和16年)11月11日部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)11月20日隊はクェゼリンに到着、補給待機。 
1941年(昭和16年)11月23日隊は13:30、クェゼリンからハワイ方面に向かう。 
1941年(昭和16年)12月1日隊はハワイの300浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。 
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島真珠湾口南の外側D1哨区に到着、待機。 
1941年(昭和16年)12月8日部隊は索敵を開始。 艦は真珠湾口南の内側E1哨区に移動。 
1941年(昭和16年)12月9日再び、真珠湾口南の外側D1哨区に配備を下令される。 ダイヤモンドヘッドの230度4浬付近において、アメリカ空母「エンタープライズ(Enterprise)」を発見と報告後、消息を絶つ。 
1941年(昭和16年)12月10日真珠湾口付近で亡失認定。
1941年(昭和16年)12月11日アメリカ海軍作戦年誌によれは、オアフ島東方の北緯30度45分、西経155度33分において「エンタープライズ(Enterprise)」艦載機のドーントレスの爆撃により撃沈と記録。
1942年(昭和17年)1月10日予備潜水艦を第四予備潜水艦と定める。 第十二潜水隊から除く。 
1942年(昭和17年)3月10日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p53,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p59
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p73
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p279-282