伊号第百六十九潜水艦は海大6型a(伊六十八型)潜水艦の2番艦である。
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 海大6型a(伊六十八型) |
建造所 | 三菱重工業神戸造船所 |
水上排水量 ※1 | 1,400トン(基準)/1,785トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 2,440トン |
垂線間長 | 98.40m |
全長 | 104.70m |
最大幅 | 8.20m |
喫水 | 4.58m |
主機 | 艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 閉鎖通風型2基 |
蓄電池 | |
出力 | 8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中) |
速力 | 23ノット(水上)/8.2ノット(水中) |
燃料 | 重油:338トン |
航続力 | 10ノットで14,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中) |
乗員 | 68名 |
兵装 | 50口径八八式10cm単装高角砲1基 保式13mm単装機銃1基 留式7.7mm単装機銃1基 八八式53cm魚雷発射管4門(艦首) 2門(艦尾) 魚雷14本 |
安全潜航深度 | 70m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1931年(昭和6年)6月18日 | 三菱造船神戸造船所において起工。 |
1932年(昭和7年)8月1日 | 伊号第六十九潜水艦と命名。 |
1934年(昭和9年)2月15日 | 進水。 |
1935年(昭和10年)9月28日 | 竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 |
1935年(昭和10年)10月8日 | 第十二潜水隊(新編、呉鎮守府部隊)に編入。 |
1935年(昭和10年)11月15日 | 第十二潜水隊は第二潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 |
1936年(昭和11年)4月13日〜22日 | 隊は戦隊と福岡湾から青島に向かい、寺島水道に帰着。 |
1936年(昭和11年)8月4日〜6日 | 隊は戦隊と馬公から履門に向かい、高雄に帰着。 |
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日 | 隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾に帰着。 |
1937年(昭和12年)7月15日〜17日 | 第二艦隊は宿毛湾に帰着、待機後、別府に回航。 |
1937年(昭和12年)7月21日 | 第二艦隊は別府から佐世保に回航、補給待機。 |
1937年(昭和12年)7月29日 | 第二艦隊は北支部隊(第二艦隊)に編入、陸軍と協力して、居留民の保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保で待機を下令される。 |
1937年(昭和12年)8月17日〜20日 | 隊は旅順に回航を下令され、佐世保から旅順に進出。 |
1937年(昭和12年)8月21日 | 隊は旅順から裏長山列島に移り、待機。 |
1937年(昭和12年)8月23日 | 第二潜水戦隊は北支部隊(第二艦隊)主隊に編入、第二艦隊司令長官の直率下に、陸軍A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。 |
1937年(昭和12年)8月25日 | 部隊はA支隊の青島攻略作戦の取り止めを下令される。 |
1937年(昭和12年)6月28日 | 隊は裏長山列島から青島居留民引き揚げの支援に向かう。 |
1937年(昭和12年)8月31日 | 隊は撤収帰投を下令され、山東角付近から裏長山列島に向かう。 |
1937年(昭和12年)9月1日〜2日 | 隊は裏長山列島に帰着後、旅順に回航。 |
1943年(昭和18年)9月3日 | 第二潜水戦隊は4日以降、第十四師団の船団護衛を下令される。 |
1937年(昭和12年)9月4日 | 隊は旅順から、大沽向けの船団護衛に向かう。 |
1937年(昭和12年)9月23日 | 艦は旅順に帰着、待機。 |
1937年(昭和12年)9月24日 | 第二潜水戦隊は北支部隊(第二艦隊)第一封鎖部隊(第二潜水戦隊)に編入、海州湾以北の沿岸の封鎖監視を下令される。 |
1937年(昭和12年)10月1日〜7日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)10月13日〜19日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)10月25日〜31日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月3日〜8日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月13日〜18日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月19日 | 隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かう。 |
1937年(昭和12年)11月20日 | 北支部隊(第二艦隊)は編成を解かれ、第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。 |
1937年(昭和12年)11月24日 | 隊は佐世保に帰着。 |
1938年(昭和13年)4月9日〜14 | 隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、基隆に到着。 |
1938年(昭和13年)10月17日〜22日 | 隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、馬公に到着。 |
1938年(昭和13年)12月15日 | 第十二潜水隊は第二潜水戦隊から除かれる。 第三予備潜水艦と定める。 |
1939年(昭和14年)11月15日 | 第十二潜水隊は第三潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 第三予備潜水艦を予備潜水艦と定める。 |
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日 | 隊は戦隊と中城湾から南支方面に向かい、高雄に到着。 |
1940年(昭和15年)8月25日 | 戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。 |
1940年(昭和15年)9月21日 | 横須賀に帰着。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 第三潜水戦隊は第六艦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)1月28日 | 司令潜水艦を当艦から伊号第六十八潜水艦に変更。 |
1941年(昭和16年)7月28日 | 司令潜水艦を伊号第七十潜水艦から当艦に変更。 |
1941年(昭和16年)9月1日 | 連合艦隊は戦時編制。 |
1941年(昭和16年)11月5日 | 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、機動部隊(第一航空艦隊)の作戦に協力、ハワイ方面アメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 |
1941年(昭和16年)11月10日 | 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の穏密偵察、機動部隊不時着機人員の収容を下令される。 |
1941年(昭和16年)11月11日 | 部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。 |
1941年(昭和16年)11月20日 | 隊はクェゼリンに到着、補給待機。 |
1941年(昭和16年)11月23日 | 隊は13:30、クェゼリンからハワイ方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月1日 | 隊はハワイの300浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月2日 | 開戦は8日と下令される。 |
1941年(昭和16年)12月7日 | オアフ島真珠湾口南の外側D1哨区に到着、待機。 |
1941年(昭和16年)12月8日 | 部隊は索敵を開始。 艦は真珠湾口南の内側E1哨区に移動。 |
1941年(昭和16年)12月9日 | 再び、真珠湾口南の外側D1哨区に後退。 20:41、ハーパースポイントの南8浬において、運送船1隻を雷撃したが、効果がなかった。 艦はハーパースポイントの130度4.5浬において、敵の防潜網らしきものにかかり、着底して待機。 自爆の用意を行う。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | 部隊は18日18:00撤哨、クェゼリンに帰投を下令される。 艦は浮上に際して、空気の不足を補うため、魚雷の気室から酸素を抜き辛うじて浮上したが、敵哨戒艦か近くにおり、潜航退避したのちも追跡され、爆雷攻撃を受けた。 艦は後部発射管室のビルジ内の排水不良のため、再び浮上する羽目こなったが、スコールにより逃れた。 |
1941年(昭和16年)12月12日 | 事故の経緯と離脱の成功を報告。 再びD1哨区に戻ったが、以後も爆雷攻撃を5回も受け、夜間の浮上充電も困難であった。 |
1941年(昭和16年)12月18日 | 部隊はオアフ島付近を撤収し、クェゼリンに向かった。 |
1941年(昭和16年)12月27日 | クェゼリン帰着、補給待機。 |
1942年(昭和17年)1月8日 | ミッドウェーの偵察を下令される。 |
1942年(昭和17年)1月10日 | 第三潜水戦隊は、ハワイ西方550浬においてアメリカ機動部隊を発見との報告により、急遽出撃準備を下令される。 |
1942年(昭和17年)1月12日 | クェゼリンからミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)1月 | ミッドウェーの600浬圏内に入り、昼間は潜航して進撃。 |
1942年(昭和17年)1月21日 | ミッドウェー付近に到達、索敵に入ったが、特別攻撃隊の2隻が行動中のため、接近を控えて待機。 |
1942年(昭和17年)2月1日 | アメリカ機動部隊のマーシャル方面来襲により、艦は南下して、敵の帰途を邀撃するよう行動したが、会敵しなかった。 |
1942年(昭和17年)2月4日 | 掃航南下を中止、ミッドウェーの偵察、砲撃の任務に復帰を下令され、反転してミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)2月7日 | ミッドウェー付近に戻り、索敵に当たる。 |
1942年(昭和17年)2月9日 | 日没後、ミッドウェー島を砲撃したが、視界不良のため、射弾3発で敵機の爆撃を受け、急速潜航退避。 |
1942年(昭和17年)2月11日 | 日没後、ミッドウェーに接近、サンド島を砲撃、陸上施設に命中弾を与えたが、間もなく陸上から反撃され、潜航退避。 |
1942年(昭和17年)2月12日 | ミッドウェー付近を撤収して、クェゼリンに向かう。 |
1942年(昭和17年)2月17日 | クェゼリンに帰着。 整備休養のため内地に回航予定のところ、アメリカ機動部隊ハワイ出撃の報告により、急遽出撃準備に当たり、ウェーク東方に進出を下令される。 |
1942年(昭和17年)2月18日 | クェゼリンからウェーク東方に向かう。 |
1942年(昭和17年)2月23日 | ウェーク東方に進出、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)2月26日 | ウェーク東方を撤収、呉に向かう。 |
1942年(昭和17年)3月5日 | 呉に帰着、入渠修理。 |
1942年(昭和17年)3月20日 | 司令潜水艦を当艦から伊号六十八潜水艦に変更。 |
1942年(昭和17年)4月10日 | 第三潜水戦隊は、東京湾東方700浬付近のG散開線(北緯35度、東経161度付近)に進出、アメリカ機動部隊を警戒、索敵掃航を下令される。 |
1942年(昭和17年)4月15日 | 呉から部隊とG散開線に向かい、索敵掃航。 |
1942年(昭和17年)4月18日 | 対米艦隊作戦第三法発動を下令される。 部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 部隊は午後、敵方に進撃を下令され、16:00、第三潜水戦隊は18節で進撃。 |
1942年(昭和17年)4月19日 | 部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に避退した算大で、戦隊は北緯34度以北を捜索し、敵情を得なければ、K散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 部隊は2:00、20日2200までに、S散開線に配備を下令される。 |
1942年(昭和17年)4月20日 | 部隊は12:00、18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで14:00、速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃を下令される。 部隊は19:00、対米艦隊作戦第三法止めを下令されたが、引き続き、警戒を下令され、G散開線(犬吠埼東方950浬)に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月21日 | G散開線に到達、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)4月29日 | G散開線を撤収、クェゼリンに向かう。 |
1942年(昭和17年)5月4日 | 第三潜水部隊は13:30、アメリカ機動部隊の出現を警戒して、マーシャル北方300浬のM散開線に移動を下令され、転針進航した。 |
1942年(昭和17年)5月5日 | 第三潜水部隊は、N−5日頃までにミッドウェー−ハワイ間に配備、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 |
1942年(昭和17年)5月6日 | 部隊とM散開線に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)5月8日 | M散開線を撤収、クェゼリンに向かう。 |
1942年(昭和17年)5月9日 | クェゼリンに到着、補給待機。 司令潜水艦を伊号第六十八潜水艦から当艦に変更。 |
1942年(昭和17年)5月14日 | 5月20日付けで、伊号第百六十九潜水艦と改名。 |
1942年(昭和17年)5月21日 | N-5日までに、キューア島およびミッドウェー南東方の甲散開線(北緯20〜24度、西経167度)につき、敵艦船を奇襲、ミッドウェー攻略部隊の作戦に協力を下令される。 |
1942年(昭和17年)5月24日 | クェゼリンからミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)6月2日 | ミッドウェー南東方の甲散開線に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)6月5日 | 第三潜水部隊と速やかに丙散開線(北緯30度20分〜27度、西経168度50分)の南半部に移動を下令され、北上して移動。 |
1942年(昭和17年)6月6日 | 第三潜水部隊と丙散開線に到着、索敵哨戒。 艦は第三潜水部隊と、16:00から274度方向に進撃し、丙二散開線(北緯30度40分〜北緯27度20分、東経174度)に到達すれば、待機と下令される。 |
1942年(昭和17年)6月7日 | 第三潜水部隊とミッドウェー南方を通過し、S散開線(北緯27度20分〜26度20分、西経180度)に急速進撃を下令される。 部隊と反転し、S散開線に向かう。 |
1942年(昭和17年)6月8日 | 敵機動部隊は7日夕刻、東方に引き揚げたものと判断され、散開線通過の算大として、警戒を下令される。 |
1942年(昭和17年)6月9日 | 第三潜水部隊とS散開線に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)6月13日 | 敵機動部隊はミッドウェー東方にあるとの情報により、艦は部隊とV散開線(北緯27度〜29度、西経175度)に配備の移動を下令される。 部隊と朝から東方に向かい、索敵掃航。 |
1942年(昭和17年)6月15日 | 第三潜水部隊とクェゼリンに帰投を下令される。 部隊とV散開線に到達することなく反転、クェゼリンに向かう。 |
1942年(昭和17年)6月20日 | クェゼリンに到着、補給待機。 |
1942年(昭和17年)6月29日 | 第三潜水部隊は、7月11日クェゼリン発、ニューカレドニア、フィジー、サモア、オーストラリア東岸および南岸の敵海上交通破壊を下令される。 |
1942年(昭和17年)7月 | ニューカレドニア、サモア方面の作戦を下令される。 |
1942年(昭和17年)7月6日 | 司令潜水艦を当艦から伊号第百七十一潜水艦に変更。 |
1942年(昭和17年)7月9日 | クェゼリンから、ニューカレドニア方面に向かう。 |
1942年(昭和17年)7月19日 | ヌーメア付近に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)7月21日 | ヌーメア付近の南緯23度18分、東経165度25分において、オランダ貨物船チネガラ(Tjinegara、9,227トン)を雷撃により撃沈。 |
1942年(昭和17年)7月24日 | ヌーメア付近から、フィジーに向かう。 |
1942年(昭和17年)7月29日 | 再び、ヌーメア付近に到着、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)8月1日 | ヌーメア付近から、サモアに向かう。 |
1942年(昭和17年)8月4日 | サモア沖に到着、ポートビラ港内に侵入、索敵。 |
1942年(昭和17年)8月5日 | ポートビラ付近において、敵哨戒艇の攻撃を受け、メインタンクほか船体を損傷したため、撤収してトラックに向かう。 |
1942年(昭和17年)8月7日 | 第三潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 外南洋部隊(第八艦隊)に編入、ツラギ方面来襲の敵攻撃を下令される。 艦は外南洋部隊(第八艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、サンクリストバル島東方海面に配備を下令される。 トラック帰航を止め、サンクリストバル島東方に急行。 |
1942年(昭和17年)8月8日 | 外南洋部隊は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 サンクリストバル島東方に進出、索敵哨戒。 |
1942年(昭和17年)8月10日 | 行動力限度に達し、サンクリストバル島東方を撤収、トラックに向かう。 |
1942年(昭和17年)8月15日 | トラックに帰着、応急修理、補給待機。 外南洋部隊から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、内地に帰投、修理を下令される。 |
1942年(昭和17年)8月17日 | トラックから呉に向かう。 |
1942年(昭和17年)8月24日 | 呉に帰着、待機。 |
1942年(昭和17年)9月1日〜2日 | 呉から佐世保に回航、以後、入渠修理。 |
1942年(昭和17年)10月31日 | 先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内地において修理整備を下令される。 |
1942年(昭和17年)12月28日 | 司令潜水艦に当艦が指定される。 |
1943年(昭和18年)1月2日〜3日 | 佐世保から呉に回航、以後、内海西部において訓練。 |
1943年(昭和18年)2月1日 | 先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第十ニ潜水隊)に編入、アリューシャン列島方面の敵海上交通破壊および、キスカ島の防備に協力を下令される。 |
1943年(昭和18年)2月15日 | 呉から甲標的を搭載して、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)2月23日 | 北方部隊潜水部隊指揮官は第五艦隊司令長官となる。 |
1943年(昭和18年)2月26日 | キスカ島に到着、甲標的、魚雷、便乗者を揚陸。 |
1943年(昭和18年)2月27日 | キスカ島からアムチトカ島方面の哨区に向かう。 |
1943年(昭和18年)2月28日 | アムチトカ島付近において、アメリカ巡洋艦および駆逐艦各1隻を発見し、潜航退避したが、爆雷攻撃を受けた。 |
1943年(昭和18年)3月11日 | アムチトカ島付近から撤収、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月13日 | 艦は1630、キスカ島に到着、便乗還送者および遺骨33桂を収容。 同日、アッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月14日 | アッツ島に到着、連絡要務ののち、同日幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月17日 | 幌筵に到着、便乗者ほかを揚陸、補給待機。 |
1943年(昭和18年)3月22日 | 幌筵からアダック島南方の第一散開線に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月25日 | 北緯53度15分、東経174度の配備点に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)3月28日 | アダック島南方から撤哨、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月1日 | キスカ島に到着、便乗帰還者を収容、同日横須賀に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月9日 | 横須賀に帰着、便乗者を揚陸、補給待機。 |
1941年(昭和16年)4月12日 | 横須賀から呉に回航、以後、入渠修理。 |
1943年(昭和18年)4月22日 | 北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 |
1943年(昭和18年)5月10日 | 司令潜水艦を当艦から伊号第百七十一潜水艦に変更。 |
1943年(昭和18年)5月13日 | アメリカのアッツ島来攻に伴い、艦は先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、準備出来次第、西部アリューシャン方面に進出を下令される。 |
1943年(昭和18年)5月15日 | 北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、敵退路遮断、敵艦隊攻撃を下令される。 |
1943年(昭和18年)5月20日 | 北方部隊潜水部隊はケ号作戦により、キスカ島守備隊の撤収輸送を下令される。 |
1943年(昭和18年)5月21日〜23日 | 呉から横須賀に回航、補給待機。 |
1943年(昭和18年)5月23日 | 横須賀からアリューシャン方面配備(北緯47度、東経177度付近)に向かう。 |
1943年(昭和18年)5月29日 | 12:00、アッツ島方面の哨区に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)5月31日 | アッツ島守備隊の玉砕により、5:00アッツ島方面を撤哨、セミソノポチノイ島北東方の]散開線に移動を下令され、索敵移動。 |
1943年(昭和18年)6月2日 | ]散開線に到着後、クルック湾偵察および、6日夕刻までに、Z散開線に移動を下令される。 11:00、]散開線に到着、索敵哨戒ののち、17:40、Y散開線に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月3日 | 北方部隊潜水部隊は、ケ号作戦により、キスカ島守備隊の撤収輸送を下令される。 |
1943年(昭和18年)8月5日 | 2:27、クルック湾に侵入、偵察ののち、23:45、Z散開線に向かう。 偵察では、敵艦船はいなかった。 |
1943年(昭和18年)6月6日 | 15:00、タナガ島北方のZ散開線に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)6月7日 | 9:48、護衛つきの中型輸送船1隻の西航を発見。 21:05、Z散開線を撒哨して、アムチトカ水道に向かう。 22:37、駆逐艦1隻を発見。 いずれも攻撃の機会がなかった。 |
1943年(昭和18年)6月9日 | 2:00、アムチトカ水道を偵察、コンスタンチン港付近に敵艦船を認めなかった。 索敵ののち、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月10日 | キスカ島に到着、弾薬1トン、糧食2トンを揚陸、撤収員60名を収容し、21:00、幌筵に向かう。 22:50、濃霧中で砲撃され、潜航回避。 |
1943年(昭和18年)6月14日 | 1580、幌筵に帰着、撤収員を揚陸、補給待機。 |
1943年(昭和18年)6月16日 | 11:00、幌筵からキスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月19日 | キスカ島への進航を中止、待機を下令される。 |
1943年(昭和18年)6月22日 | 撤収輸送を中止して、帰投を下令され、反転、幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月23日 | 北方部隊潜水部隊は、ケ号作戦の輸送中止を下令される。 |
1943年(昭和18年)6月24日 | 18:00、幌筵に帰着、待機。 司令潜水艦を伊号第百七十五潜水艦から当艦に変更。 |
1943年(昭和18年)6月28日 | 潜水部隊(第一潜水戦隊)第三邀撃隊(第十二潜水隊)に編入、ケ号第二期作戦に協力、Y−3日幌筵発、Y+3日までにD散開線につき、アメリカ艦隊攻撃を下令される。 |
1943年(昭和18年)7月4日 | 幌筵からキスカ島南方のD散開線に向かう。 |
1943年(昭和18年)7月10日 | D散開線に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)7月16日 | 18日まで現配備付近を機宜行動、17日機を見て、コンスタンチン飛行場を砲撃、22日中に北緯47度10分、東経176度50分に到り待機を下令される。 |
1943年(昭和18年)7月23日 | E散開線に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)7月30日 | 隊はキスカ島南方東西のF散開線につき、敵艦隊攻撃を下令される。 潜水部隊は17:22、ケ号作戦の成功により、撤哨して幌筵に帰投を下令される。 キスカ島南方から幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)8月2日 | 幌筵に帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)8月3日 | 第十二潜水隊は北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 幌筵から横須賀こ向かう。 |
1943年(昭和18年)8月10日 | 横須賀に帰着、待機。 |
1943年(昭和18年)9月15日 | 第三潜水戦隊は解隊、第十二潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内南洋方面に進出を下令される。 |
1943年(昭和18年)9月25日〜10月1日 | 横須賀からトラックに進出。 |
1943年(昭和18年)10月7日 | アメリカ機動部隊のウェーク来襲により、出撃準備を下令される。 |
1941年(昭和16年)10月14日 | トラックからオーストラリア東岸に向かう。 |
1943年(昭和18年)10月16日 | 丙作戦第五法警戒を下令される。 甲潜水部隊に編入、第二潜水隊司令の指揮下に、ウェーク島東方のT散開線(北緯21度38分、東経171度02分〜北緯23度22分、東経169度58分)の中央に配備を下令される。 |
1943年(昭和18年)10月23日 | T散開線から、ハワイ南方に移動を下令される。 |
1943年(昭和18年)10月25日 | オアフ島南方に向かう。 |
1943年(昭和18年)11月 | ハワイ南方に進出、索敵哨戒、 |
1943年(昭和18年)11月13日 | 甲潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、トラックに帰投を下令される。 |
1943年(昭和18年)11月19日 | アメリカ機動部隊のギルバート諸島来攻により、丙作戦第三法警戒を下令される。 甲潜水部隊に編入、第二潜水隊司令の指揮下に、A散開線(北緯12度、東経174度20分〜北緯1度00分、東経174度20分)に急行を下令される。 帰航の途中から転針、A散開線に向かう。 |
1943年(昭和18年)11月22日 | 補給のため、クェゼリンに帰投を下令れる。 |
1943年(昭和18年)11月24日 | クェゼリンに帰着、伊号第三十二潜水艦から補給を受ける。 |
1943年(昭和18年)11月26日 | 甲潜水部隊とミレ島南方のA散開線(基点:北緯3度48分、東経172度52分 待敵方向:150度、間隔:25浬)(艦は中央)に配備を下令される。 |
1943年(昭和18年)11月27日 | クェゼリンから、ギルバート方面に向かう。 マキン東方のC散開線の西端、マキン島付近に配備を下令される。 |
1943年(昭和18年)11月29日 | タラワ東方のD散開線(基点:北緯137度、東経174度08分、 待敵方向:230度、距離25浬)の中央に配備を下令される。 |
1941年(昭和16年)11月30日 | 部隊とタベチェア島東方のE散開線(D散開線の144度180浬)に配備を下令される。 |
1943年(昭和18年)12月1日 | 味方哨戒機はマキンに向かう敵船団6隻を発見、進撃が遅れていた艦は独断でこの船団の攻撃に向かう。 |
1943年(昭和18年)12月2日 | 22:00以後、マキン湾口を扼して偵察するよう下令される。 無理な命令と部内で不評。 |
1943年(昭和18年)12月4日 | 丙作戦第三法の終結を下令される。 甲潜水部隊は編成を解かれ、トラックに帰投を下令される。 マキン付近から撤収して、トラックに向かう。 |
1943年(昭和18年)12月10日 | トラックに帰着、待機。 |
1944年(昭和19年)1月22日 | 先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦輸送等を下令される。 |
1944年(昭和19年)1月27日 | トラックからラバウルに向かう。 |
1944年(昭和19年)1月31日 | ラバウルに到着、第八根拠地隊の海上機動部隊約30名を収容し、補給と出撃準備に当たる。 |
1944年(昭和19年)2月1日 | ラバウルからグリーン島に向かう。 |
1944年(昭和19年)2月3日 | グリーン島沖に到着、陸戦隊を揚陸して待機、同隊を再び収容して、ラバウルに向かう。 |
1944年(昭和19年)2月4日 | ラバウルに帰着、陸戦隊を揚陸、待機。 |
1944年(昭和19年)2月10日〜12日 | ラバウルからブカ島に到着、輸送物件を揚塔、帰航。 |
1944年(昭和19年)2月15日 | ラバウルに帰着、待機。 |
1944年(昭和19年)2月25日〜29日 | ラバウルからブインに到着、揚陸ののち帰航。 |
1944年(昭和19年)3月4日 | ラバウルに帰着、待機。 |
1943年(昭和18年)3月6日 | 伊号第四十二潜水艦が南東方面部隊に編入後、先遣部隊(第六艦隊)に復帰の予定と下令される。 航空基地員を収容して、ラバウルからトラックに向かう。 |
1944年(昭和19年)3月11日 | トラックに帰着、輸送人員を揚陸、待機。 南東方面部隊(南東方面艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、敵艦隊攻撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)3月17日 | アメリカ機動部隊のトラック来襲を警戒して、モートロック島付近に配傭を下令される。 |
1944年(昭和19年)3月18日 | トラックからモートロック島付近に向かう。 |
1944年(昭和19年)3月20日 | 甲潜水部隊に編入、配備を180度、100浬、移動と下令される。 南下、移動。 |
1944年(昭和19年)3月21日 | トラックに帰投を下令され、撤収帰航。 |
1944年(昭和19年)3月22日 | トラックに帰着、待機。 |
1944年(昭和19年)4月4日 | トラック泊地において、アメリカ軍機の爆撃を受け、錨泊沈座の際、開口部の閉鎖不慮のため、夏島トロモン山の314度、2500mにおいて沈没。 |
1944年(昭和19年)8月10日 | 除籍。 |
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