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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第百七十二潜水艦について

伊号第百七十二潜水艦は海大6型a(伊六十八型)潜水艦の5番艦である。

要目(1)(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大6型a(伊六十八型)
建造所三菱重工業神戸造船所
水上排水量 ※11,400トン(基準)/1,785トン(常備)
水中排水量 ※12,440トン
垂線間長98.40m
全長104.70m
最大幅8.20m
喫水4.58m
主機艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型2基
蓄電池
出力8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)
燃料重油:338トン
航続力10ノットで14,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中)
乗員68名
兵装50口径八八式10cm単装高角砲1基
保式13mm単装機銃1基
留式7.7mm単装機銃1基
八八式53cm魚雷発射管4門(艦首)
2門(艦尾)
魚雷14本
安全潜航深度70m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(5)

年月日履歴
1933年(昭和8年)12月15日伊号第七十二潜水艦と命名。 
1933年(昭和8年)12月16日三菱造船神戸造船所において起工。 
1935年(昭和10年)4月6日進水。 
1937年(昭和12年)1月7日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 第二十潜水隊(呉鎮守府部隊)に編入。 
1938年(昭和13年)12月15日第二十潜水隊は第二潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 
1939年(昭和14年)3月21日〜4月3日戦隊と佐世保から北支方面に向かい、有明湾に帰着。 
1939年(昭和14年)8月6日〜26日戦隊と宿毛沖から南洋方面に向かい、岸和田沖に帰着。 
1939年(昭和14年)11月15日第二潜水戦隊は解隊、第二十潜水隊は第三潜水戦隊(第二艦隊)に編
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日戦隊と中城湾から南支方面に向かい、高雄に到着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。 
1940年(昭和15年)9月21日戦隊と横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。
1941年(昭和16年)1月16日司令潜水艦を伊号第七十三潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)3月9日〜4月17日戦隊と呉から南支方面に向かい、呉に帰着。 
1941年(昭和16年)3月22日司令潜水艦を当艦から伊号第七十一潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)8月21日司令潜水艦を伊号第七十三潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 
1941年(昭和16年)9月2日司令潜水艦を当艦から伊号第七十三潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の穏密偵察、機動部隊不時着機人員の収容を下令される。 
1941年(昭和16年)11月11日第三潜水戦隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)11月20日隊はクェゼリンに到着、補給待機。 
1941年(昭和16年)11月23日3:30、クェゼリンからオアフ島南方海面に向かう。 
1941年(昭和16年)12月1日隊はハワイの800浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に進航。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島真珠湾湾口南方外側D1哨区に到着、待機。 
1941年(昭和16年)12月8日開戦により索敵を開始。 湾口前のE1哨区に移動。 
1941年(昭和16年)12月9日艦は再び、湾口南方外側D1哨区に移動を下令される。 
1941年(昭和16年)12月11日第三潜水戦隊は18日18:00、撤哨してクェゼリンに帰投を下令される。 
1941年(昭和16年)12月13日先遣部隊指揮官からマウイ島方面の偵察攻撃下令の電報を傍受、自艦に指示されたものと独断、マウイ島方面に向かう。 
1941年(昭和16年)12月14日マウイ島カルフイおよび、ハワイ島西岸カイルアを偵察。 
1941年(昭和16年)12月15日偵察の結果と、同夜のヒロ砲撃の予定を報告。 16:00、敵艦船を発見次第、撃沈するよう下令される。 
1941年(昭和16年)12月16日前夜半過ぎ、ヒロ港を砲撃したが、効果不明。 
1941年(昭和16年)12月18日第三潜水戦隊はハワイ方面を撤収、クェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)12月19日オアフ島南方250浬付近において、アメリカ貨物船「プルーサ(Prusa、5,113トン)」を雷撃により撃沈。 
1941年(昭和16年)12月27日クェゼリンに帰着、補給休養。 
1942年(昭和17年)1月8日ハワイ方面の監視を下令される。 
1942年(昭和17年)1月10日第三潜水戦隊は、ハワイ西方550浬においてアメリカ機動部隊を発見との報告により、急遽出撃準備を下令される。 
1942年(昭和17年)1月12日クェゼリンからハワイ方面に向かい、索敵掃航。 
1942年(昭和17年)1月22日オアフ島南西方に到着、特別攻撃隊と交代、監視索敵。 オアフ島南西方ないし西方80浬付近の哨戒に当たる。 
1942年(昭和17年)1月23日ニイハウ島南方の北緯21度01分、東経160度60分においてアメリカ海軍給油艦「ナチェス(Neehes、7,383トン)」を雷撃で撃沈。 アメリカ機動部隊はウェーク島攻撃の予定を取り止め、引き返した。 
1942年(昭和17年)1月27日第三潜水戦隊は2月11日、ハワイ監視を打切り、3月3日までに内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)2月1日アメリカ機動部隊のマーシャル方面来襲により、隊は4日中に、ニイハウ島西180浬から南140浬の散開線に配備、帰途の邀撃を下令される。 
1942年(昭和17年)2月3日未明に敵巡洋艦らしきものを発見したが、攻撃できなかった。 
1942年(昭和17年)2月4日L散開線に到潜、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)2月11日隊はハワイ−マーシャル諸島間の索敵掃航を下令され、クェゼリンに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)2月16日クェゼリンに帰着、補給。 
1942年(昭和17年)2月17日整備休養のため、内地に回航予定のところ、アメリカ機動部隊のハワイ出撃の報告により急遽出撃準備、ウェーク東方に進出を下令される。 クェゼリンからウェーク東方に向かう。 
1942年(昭和17年)2月22日ウェーク東方に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)2月26日ウェーク東方を撤収、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)3月5日呉に帰着、入渠修理、整備休養。 
1942年(昭和17年)3月20日第二十潜水隊は解隊、第十二潜水隊(第三潜水戦隊)に編入される。
1942年(昭和17年)4月10日第三潜水部隊は、東京湾東方700浬付近のG散開線(北緯35度、東経161度付近)に進出、アメリカ機動部隊を警戒、索敵掃航を下令される。 
1942年(昭和17年)4月16日艦は呉から隊主力を追及し、G散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)4月18日対米艦隊作戦第三法発動を下令される。 部隊と犬吠埼東方410浬の散開娘につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 午後、部隊は敵方に進撃を下令され、16:30、第三潜水戦隊は18節で進撃した。 
1942年(昭和17年)4月19日第三潜水部隊は90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に退避した算大で、第三潜水部隊は北緯34度以北を捜索、敵情を得なければ、K散開線(東経160度)に向かうよう下令される。
1942年(昭和17年)4月20日第三潜水部隊は12:00、18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで、14:00速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃と下令される。 19:00、対米艦隊作戦第三法止めを下令されたが、第三潜水部隊は引き続き警戒に当たるよう下令される。
1942年(昭和17年)4月21日第三潜水部隊はG散開線(犬吠埼東方950浬)に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)4月29日主機に故障を生じ、横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)5月3日横須賀着。 応急修理。
1942年(昭和17年)5月5日第三潜水部隊は、N-5日頃までにミッドウェー−ハワイ間に配備、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)5月10日〜12日横須賀から呉に回航、入渠修理。
1942年(昭和17年)5月14日5月20日付けで、伊号第百七十二潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)6月29日第三潜水部隊は、7月11日クェゼリン発、ニューカレドニア、フィジー、サモア、オーストラリア東岸および南岸の敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)8月7日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 外南洋部隊(第八艦隊)に編入、南東方面の作戦を下令される。 
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月21日第三潜水戦隊は南東方面部隊(第十一航空艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、南東方面に進出を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日〜28日呉からトラックに進出、補給待機。 
1942年(昭和17年)8月28日先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。 
1942年(昭和17年)6月30日トラックからインディスペンサブル海峡に向かう。 
1942年(昭和17年)9月3日先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する敵増援の避断を下令される。 インディスペンサブル海峡に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)9月7日第三潜水部隊は第一潜水戦隊司令官の作戦指揮下に、既令任務の続行を下令される。 
1942年(昭和17年)9月9日5:00、サンクリストバル島端北西において、敵輸送船団を発見したが、護衛の駆逐艦の警戒が厳重で、攻撃できなかった。 
1942年(昭和17年)9月15日先遣部隊(第六艦隊)第一監視部隊第三潜水部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、インディスペンサブル海峡に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)9月25日哨区において敵駆逐艦1隻を発見。 撤哨してトラックに帰投を下令され、北上帰航。 
1942年(昭和17年)9月30日トラックに帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)10月4日先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、特令による任務を下令される。 
1942年(昭和17年)10月8日準備出来次第、トラック発、X+2日以後、伊号第二十六潜水艦から甲標的補給任務の承継を下令される。 
1942年(昭和17年)10月11日トラックからガダルカナル島に向かう。 
1942年(昭和17年)10月13日甲標的がガダルカナル島カミンボに未進出のため、艦はサンクリストバル島南方の甲潜水部隊との合同に向かう。 
1942年(昭和17年)10月14日甲潜水部隊はインディスペンサブル礁東方のD散開線に、配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)10月15日甲潜水部隊はE散開線(D散開線の60度70浬)に、配備の移動を下令
1942年(昭和17年)10月16日先遣部隊(第六艦隊)甲潜水部隊に編入、第一潜水戦隊司令官の指揮下に、ガダルカナル島に対する敵増援の適断を下令される。 19:89、レンネル島東方において、敵駆逐艦2隻を発見。 
1942年(昭和17年)10月18日E散開線に向かい移動中、18:20、南緯12度25分、東経162度22分において、敵戦艦1隻、巡洋艦2隻ほかの艦隊を発見、攻撃の機会がなく、スコールの中で見失う。 艦は敵の南側前程に出るよう下令される。 甲潜水部隊はインディスペンサブル礁東方のF散開線に、配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)10月19日F散開線に到着、索敵哨戒。 甲潜水部隊は、Y日(22日の予定)、ガダルカナル島の総攻撃に応じて、Y-1日零時から、南東方に掃除航、巳散開線(南緯17度50分、東経163度30分〜東経163度30分)に到達するよう下令される。 
1942年(昭和17年)10月20日Y日は22日と下令される。 11:38、配備点において、敵巡洋艦2、駆逐艦3を発見。
1942年(昭和17年)10月21日部隊と零時、南東方に掃除航、巳散開線に向かう。 Y日の1日延期か下令される。 甲潜水部隊はY日の延期により、巳散開線到着を1日遅らせ、G散開線において、待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)10月22日部隊と反転、1:00、G散開線に到着、索敵哨戒。 R方面航空部隊の哨戒機は、南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦基幹の敵艦隊を発見、12:30甲潜水部隊はF1散開線に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月23日Y日は更に1日延期が下令される。 艦は部隊と零時、南東方に掃除航、巳散開線に向かったが、Y日の再延期により、H散開線に留まり、待敵。
1942年(昭和17年)10月24日部隊と零時、南東方に掃除航、巳散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)10月25日敵艦隊は26日、ガダルカナル島南東方海商に出現の算大と判断され、甲潜水部隊はインディスペンサブル礁南東の]散開線に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月26日甲潜水部隊は11:42、サンタクルーズ諸島北方の敵空母を攻撃するため45度方向に水上進撃を下令される。 18:15以降に、水上進撃に入ったため、追撃に間に合わず、敵機動部隊はエスピリッサントに帰投するものと判新し、同北方のパンクス諸島西方のJ3散開線に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月27日J3散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)10月31日甲潜水部隊から除かれる。 丁潜水部隊に編入され、第七潜水戦隊司令官の指揮下に、引き続き、サンクリストバル島北東海面に散開、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)11月3日サンクリストバル島南東端の南西15浬において、敵輸送船7隻の発見を報告したのち、消息を絶つ。 
1942年(昭和17年)11月10日サンクリストバル島レチャーチ岬付近(南緯10度13分、東経161度9分)でアメリカ掃海駆逐艦「サウザード(Southard)」の爆雷攻撃と砲撃を受け沈没。]
1942年(昭和17年)11月27日ソロモン群島南西海面で亡失認定。 
1942年(昭和17年)12月15日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p53,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p59
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p73-74
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p301-307