呂号第百四潜水艦は小型(呂百型)潜水艦の5番艦である。
新造時 | |
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艦種 | 二等潜水艦 |
艦型 | 小型(呂百型) |
建造所 | 川崎重工業艦船工場 |
水上排水量 ※1 | 525トン(基準)/601トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 782トン |
垂線間長 | 57.40m |
全長 | 60.90m |
最大幅 | 6.00m |
喫水 | 3.51m |
主機 | 艦本式24号6型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 特9型2基 |
蓄電池 | 1号15型×120 |
出力 | 1,000馬力(水上)/760馬力(水中) |
速力 | 14.2ノット(水上)/8.0ノット(水中) |
燃料 | 重油:50トン |
航続力 | 12ノットで3,500浬(水上)/3ノットで60浬(水中) |
乗員 | 38名 |
兵装 | 九六式25mm連装機銃1基 九五式53cm魚雷発射管4門(艦首) 九五式魚雷8本 |
安全潜航深度 | 75m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1941年(昭和16年)11月19日 | 第二百十四号艦として、川崎重工業艦船工場において起工。 |
1942年(昭和17年)5月15日 | 呂号第百四潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 |
1942年(昭和17年)7月11日 | 進水。 |
1943年(昭和18年)2月25日 | 竣工。 本籍を呉鎮守府と定め、警備潜水艦と定める。 呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。 神戸から呉に回航。 |
1943年(昭和18年)4月1日 | 呉潜水戦隊は解隊。 第十一潜水戦隊(第一艦隊)に編入。 戦時編制。 訓練部隊(第一艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入され、引き続き、内海西部において訓練に従事。 |
1943年(昭和18年)6月5日 | 第十一潜水戦隊から除かれる。 第七潜水戦隊(南東方面艦隊)に編入。 訓練部隊(第一艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン列島方面のケ号作戦支援を下令される。 |
1943年(昭和18年)6月7日 | 呉発、幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月14日 | 幌筵に到着、補給待機。 北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、キスカ島守備隊の撤収輸送を支援、敵艦隊攻撃を下令される。 |
1943年(昭和18年)6月20日 | 幌筵発、A哨戒線(東経170度線上、北緯58度付近)に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月23日 | アッツ島西方のA哨戒線に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)6月28日 | 北方部隊潜水部隊哨戒隊(第一潜水戦隊司令官指揮)に編入、ケ号第二期作戦において、洋上哨戒、敵艦隊攻撃を下令される。 アッツ島西方のA哨戒線を撤収、幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月30日 | 払暁前、4:45水上航行中、濃霧中を突然雷撃(3本)されたが、いずれも命中しなかった。 |
1943年(昭和18年)7月1日 | 幌筵に帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)7月4日 | 幌筵発、A哨戒線(東経170度線上、北緯58度付近)に向かう。 |
1943年(昭和18年)7月9日 | アッツ島西方のA哨戒線に到着、索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)7月10日 | 呂号第百五潜水艦と交替して、撤収帰航。 |
1943年(昭和18年)7月18日 | 北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 アッツ島西方のA哨戒線を撤収、幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)7月19日 | 先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、南東方面に進出を下令される。 |
1943年(昭和18年)7月22日 | 幌筵に帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)7月23日 | 幌筵発、横須賀に向かう。 |
1943年(昭和18年)7月28日 | 横須賀に帰着、整備休養。 |
1943年(昭和18年)8月14日 | 横須賀発、トラックに向かう。 |
1943年(昭和18年)8月20日 | 第七潜水戦隊から除かれる。 第五十一潜水隊(第七潜水戦隊南東方面艦隊)に編入。 |
1943年(昭和18年)8月21日 | トラックに進出、補給待機。 |
1943年(昭和18年)8月22日 | トラック発、ラバウルに向かう。 |
1943年(昭和18年)8月26日 | ラバウルに進出、補給待機。 |
1943年(昭和18年)9月4日 | ラバウル発、ラエの敵揚陸地点の艦船攻撃に向かう。 |
1943年(昭和18年)9月6日 | ニューギニア東岸ラエ沖に進出、索敵。 |
1943年(昭和18年)9月17日 | ラバウルに帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)9月23日 | ラバウル発、フィンシュハーフェン敵揚陸地点に向かう。 |
1943年(昭和18年)9月25日 | フィンシュハーフェン沖に進出、索敵。 |
1943年(昭和18年)9月30日 | ラバウルに帰着、補給休養。 |
1943年(昭和18年)10月9日 | ラバウル発、ニューブリテン島南岸スルミに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)10月11日 | スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 |
1943年(昭和18年)10月13日 | ラバウルに帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)10月16日 | ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)10月18日 | スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 |
1943年(昭和18年)10月20日 | ラバウルに帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)10月25日 | ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)10月27日 | スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 |
1943年(昭和18年)10月29日 | ラバウルに帰着、補給待機。 |
1943年(昭和18年)10月31日 | ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)11月1日 | スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 |
1943年(昭和18年)11月2日 | 4:00撃沈された「川内」の乗員の救助を下令され、ブーゲンビル島ムッピナ岬295度55浬に向かう。 |
1943年(昭和18年)11月3日 | 午後、ブーゲンビル島西岸に進出、アメリカ軍の内火艇で漂流中の第三水雷戦隊司令官以下75名(うち戦傷3名)を救助、収容。 |
1943年(昭和18年)11月5日 | ラバウルに帰着、救助人員を揚陸、補給待機。 第三水雷戦隊司令官は将旗を当艦から「五月雨」に移揚。 |
1943年(昭和18年)11月9日 | ラバウル発、スルミに向かったが、南東方面艦隊司令長官から、敵機動部隊の邀撃を下令され、ブーゲンビル島西方に向かう。 |
1941年(昭和16年)11月11日 | ブーゲンビル島西方に進出、索敵。 |
1943年(昭和18年)11月12日 | モノ島150度45浬に、空母2、巡洋艦4、駆逐艦3の部隊が速力20節で行動と報告され、艦はその前程に出て攻撃を下令される。 |
1943年(昭和18年)11月13日 | 味方の不時着搭乗員4名を救助、収容。 |
1943年(昭和18年)11月23日 | ラバウルに帰着、補給休養。 |
1943年(昭和18年)12月4日 | ラバウル発、ブーゲンビル島南西方の哨戒に向かう。 |
1943年(昭和18年)12月13日 | ラバウルに帰着、補給休養。 |
1943年(昭和18年)12月26日 | ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)12月28日 | スルミ着、揚塔ののち、ダンピール海峡の哨戒に向かう。 |
1943年(昭和18年)12月30日 | ダンピール海峡に進出、索敵哨戒。 |
1944年(昭和19年)1月4日 | ラバウルに帰着、補給休養。 |
1944年(昭和19年)1月13日 | ラバウル発、ニューギニア北岸ガリに向かう。 作戦輸送。 |
1944年(昭和19年)1月18日 | 19:30、ガリ着、第五十一師団に対する補給物件、糧秣弾薬衛生材料約5トンを揚陸、ラバウルに向かう。 |
1944年(昭和19年)1月22日 | ラバウルに帰着、補給待機。 |
1944年(昭和19年)1月 | 内地に帰投、修理整備を下令される。 |
1944年(昭和19年)1月31日 | ラバウル発、トラックに向かう。 |
1944年(昭和19年)2月3日 | トラックに帰着、補給待機。 |
1944年(昭和19年)2月9日 | トラック発、呉に向かう。 |
1944年(昭和19年)2月17日 | 南東方面部隊から除かれ、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、次期作戦準備を下令される。 呉に帰着、入渠修理、休養。 |
1944年(昭和19年)2月28日 | 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入され、引き続き、内地において修理整備に従事。 |
1944年(昭和19年)3月1日 | 第七潜水戦隊は、南東方面艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。 |
1944年(昭和19年)3月31日 | パラオ東方に進出、配備は後令と下令される。 アメリカ機動部隊が、前日からパラオに来襲。 |
1944年(昭和19年)4月2日 | 呉発、パラオ東方に向かう。 先遣部隊第二潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、パラオに来襲のアメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月4日 | アメリカ機動部隊の北上を警戒して、出撃した潜水艦は、90度300浬の掃航索敵を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月6日 | サイパンを経由して、トラックに進出を下令される。 転針して、サイパンに向かう。 |
1944年(昭和19年)4月7日 | 先遣部隊第二潜水部隊は編成を解かれる。 艦は、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、トラックに進出を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月9日 | サイパンに到着、補給待機。 |
1944年(昭和19年)4月10日 | アメリカ機動部隊を邀撃のため、トラック南方に進出を下令される。 サイパン発、トラック南方に向かう。 |
1944年(昭和19年)4月13日 | トラック南方の配備につく。 撤収して、トラックに帰投を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月18日 | トラックに到着、補給待機。 アメリカ機動部隊が、トラック南方430浬に発見と報告された。 |
1944年(昭和19年)4月20日 | 直ちに出撃、カビエン・ニニゴ北方の哨戒を下令される。 トラック発、アドミラルティ諸島北方の赤道付近に向かう。 |
1944年(昭和19年)4月21日 | Z一号作戦発動を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月22日 | メレヨン南方赤道付近に配備を下令され、転針移動。 |
1944年(昭和19年)4月25日 | 先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ニューギニア北方の敵機動部隊の動静偵察と邀撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月29日 | メレヨン付近に配備の変更を下令される。 北上して、配備を移動。 |
1944年(昭和19年)5月1日 | 第七潜水部隊乙潜水部隊(呂号第四十一潜水艦長指揮)に編入、 |
1944年(昭和19年)5月2日 | 撤収してサイパンに帰投を下令される。 メレヨン東方を撤収、サイパンに向かう。 |
1944年(昭和19年)5月3日 | あ号作戦命令を下令される。 |
1944年(昭和19年)5月8日 | サイパンに帰着、補給休養。 |
1944年(昭和19年)5月14日 | 隊は、第七潜水部隊甲潜水部隊(第五十一潜水隊司令指揮)に編入、アドミラルティ諸島北方において、敵機動部隊と攻略部隊の哨戒、偵察、邀撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)5月15日 | 第五十一潜水隊司令は、司令潜水艦を呂号第百五潜水艦から当艦に変更。 |
1944年(昭和19年)5月17日 | サイパン発、ナ散開線(ムッソウ島北方の北緯1度、東経152度付近)に向かったが、以後、連絡がなく、消息を絶つ。 |
1944年(昭和19年)5月22日 | ナ散開線付近に進出したものと推定される。 |
1944年(昭和19年)5月23日 | 通信情報によれば、艦はアメリカ哨戒機に発見されたようであり、配備を135度方向に60浬移動するよう下令される。 アドミラルティ諸島北方(北緯1度20分、東経149度20分)でアメリカ護衛駆逐艦「イングランド( England)」ほかのヘッジホッグおよび爆雷攻撃により沈没。 |
1944年(昭和19年)5月28日 | 甲潜水部隊は、西に100浬のB散開線に配備を下令される。 |
1944年(昭和19年)5月30日 | B散開線の北端に配備を下令される。 |
1944年(昭和19年)6月3日 | 6日零時、撤収して、トラックに帰投を下令される。 艦は依然として消息がなく、未帰還となる。 |
1944年(昭和19年)6月25日 | カロリン諸島南方水域において亡失認定。 |
1944年(昭和19年)8月10日 | 除籍。 |
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