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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1987年(昭和62年)3月16日建立。 合祀者270柱。(1)

駆逐艦白雲慰霊碑

碑文

駆逐艦白雲慰霊碑

駆逐艦白雲について

白雲
吹雪型駆逐艦

「白雲」は吹雪型駆逐艦の8番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。

峯風型から睦月型までの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。

軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦「吹雪」は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。

開戦時、「白雲」は第十二駆逐隊に所属し、コタバル上陸作戦、ボルネオ攻略作戦支援に従事した。 明けて1942年(昭和17年)2月にはバンカ、パレンバン上陸作戦、ジャワ攻略作戦に参加、3月1日にはバタビア沖海戦に参加した。 3月9日、第十二駆逐隊は解隊となり、第二十駆逐隊に編入された。 6月のミッドウェー作戦には主力部隊に参加した。 ガダルカナル戦では輸送船団を護衛中の8月26日、同島沖で敵機の攻撃をうけ、直撃弾により航行不能となるが、「天霧」に曳航されてショートランド着、応急修理の上、トラック経由で内地に回航され1943年(昭和18年)3月31日まで修理工事をうけた。 4月1日に北方部隊に編入され、船団護衛および哨戒任務にに従事していたが、1944年(昭和19年)3月16日、ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖(北緯42度20分、東経144度35分)でアメリカ潜水艦「トートグ(Tautog)」の雷撃を受け沈没した。(2)(3)

艦名

艦名は気象。 白い雲。 はくうん。(4) み吉野のよしのの山の桜花白雲とのみ見えまかひつつ(読人不知/後撰集)

要目(5)(6)(7)

新造時計画値1943年9月
艦種一等駆逐艦
建造所藤永田造船所
基準排水量 ※11,680トン
公試排水量 ※21,980トン
垂線間長112.00m
水線長115.30m
全長118.00m
水線最大幅10.36m
平均喫水3.20m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力50,000馬力
速力38.0ノット
燃料重油:475トン
航続力14ノットで4,500浬
兵装50口径三年式12.7cm連装砲A型3基
留式7.7mm単装機銃2基
61cm一二年式3連装発射管3基
八年式魚雷18本
50口径三年式12.7cm連装砲A型2基
九六式25mm3連装機銃4基
同連装機銃1基
61cm一二年式3連装発射管3基
乗員219名
その他12月に大湊で93式魚雷搭載に改造された可能性がある。

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(3)

年月日履歴
1926年(大正15年)10月27日藤永田造船所において起工。
1927年(昭和2年)12月27日進水。
1928年(昭和3年)7月28日竣工。 第42号駆逐艦と命名。 呉鎮守府籍に編入。
1928年(昭和3年)8月1日白雲と改名。 第十二駆逐隊を編成。 第一予備艦となる。
1928年(昭和3年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊第十二駆逐隊となる。
1929年(昭和4年)3月28日呉発。 北支方面に行動。
1929年(昭和4年)4月3日旅順着。
1930年(昭和5年)5月17日古仁屋発。 南洋方面に行動。
1930年(昭和5年)6月19日横須賀着。
1931年(昭和6年)3月29日福岡発。 青島方面に行動。
1931年(昭和6年)4月5日裏長山列島着。
1931年(昭和6年)5月11日呉工廠入渠。
1931年(昭和6年)12月1日第二予備艦となる。
1932年(昭和7年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊第十二駆逐隊となる。
1933年(昭和8年)6月29日佐世保発。 馬鞍群島方面に行動。
1933年(昭和8年)7月5日高雄着。
1933年(昭和8年)7月13日高雄発。 南洋方面に行動。
1933年(昭和8年)8月21日木更津着。
1934年(昭和9年)10月24日呉工廠入渠。
1935年(昭和10年)3月30日出渠。
1935年(昭和10年)9月26日本州東方洋上で訓練中、台風に遭遇、激浪により艦橋前方で船体が屈曲する損害をうける(第四艦隊事件)。
1935年(昭和10年)10月10日呉工廠入渠。 損傷復旧工事および改造工事に着手。
1936年(昭和11年)7月31日工事完了し出渠。
1938年(昭和13年)4月9日佐世保発。 南支方面に行動。
1938年(昭和13年)4月14日高雄着。
1938年(昭和13年)10月9日馬公発。 南支方面に行動。
1938年(昭和13年)11月14日高雄着。
1938年(昭和13年)12月15日第二十駆逐隊に編入。
1939年(昭和14年)8月10日小松島発。 南洋方面に行動。
1939年(昭和14年)8月26日岸和田着。
1939年(昭和14年)11月15日第十二駆逐隊に編入。
1940年(昭和15年)5月1日第一艦隊第三水雷戦隊第十二駆逐隊となる。
1940年(昭和15年)7月8日呉発。 南支方面に行動。
1940年(昭和15年)11月3日呉着。
1940年(昭和15年)11月19日呉工廠入渠。
1940年(昭和15年)11月25日出渠。
1941年(昭和16年)2月24日佐世保発。 南支方面に行動。
1941年(昭和16年)3月11日有明湾着。
1941年(昭和16年)11月20日柱島発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 コタバル上陸輸送船団護衛。
1941年(昭和16年)12月8日バタニー泊地警戒。 上陸作戦支援。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。 ボルネオ攻略作戦支援。
1941年(昭和16年)12月15日ミリ沖着。 警戒。
1941年(昭和16年)12月22日ミリ発。
1941年(昭和16年)12月23日クチン沖着。
1941年(昭和16年)12月24日クチン沖で駆逐艦狭霧の乗員救助。
1941年(昭和16年)12月29日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月5日カムラン湾で船団護衛および哨戒に従事。
1942年(昭和17年)2月9日カムラン湾発。 バンカ、パレンバン上陸作戦支援。
1942年(昭和17年)2月15日シンガポール脱出艦船を攻撃。
1942年(昭和17年)2月18日アナンバス着。
1942年(昭和17年)2月20日アナンバス発。 ジャワ攻略作戦。
1942年(昭和17年)3月1日バタビア沖海戦に参加。
1942年(昭和17年)3月6日セレター着。
1942年(昭和17年)3月8日セレター発。 北部スマトラおよびアンダマン上陸作戦支援。
1942年(昭和17年)3月10日第十二駆逐隊は解隊となり、第二十駆逐隊に編入。
1942年(昭和17年)3月28日ポートプレア着。 哨区哨戒。
1942年(昭和17年)4月1日ポートプレア発。 インド洋機動戦。
1942年(昭和17年)4月11日セレター着。
1942年(昭和17年)4月13日シンガポール発。 内地に向かう。
1942年(昭和17年)4月23日呉着。 
1942年(昭和17年)5月12日呉工廠入渠。
1942年(昭和17年)5月16日出渠。
1942年(昭和17年)5月27日柱島発。 ミッドウェー作戦主力部隊に参加。
1942年(昭和17年)6月17日横須賀着。
1942年(昭和17年)6月30日呉発。 陸軍の輸送船団を護衛。
1942年(昭和17年)7月2日古仁屋着。
1942年(昭和17年)7月15日古仁屋発。
1942年(昭和17年)7月17日馬公着。
1942年(昭和17年)7月18日馬公発。
1942年(昭和17年)7月23日シンガポール着。
1942年(昭和17年)7月28日シンガポール発。
1942年(昭和17年)7月29日サバン着。
1942年(昭和17年)7月30日サバン発。
1942年(昭和17年)8月14日マカッサル着。
1942年(昭和17年)8月15日マカッサル発。
1942年(昭和17年)8月17日ダバオ着。
1942年(昭和17年)8月19日ダバオ発。
1942年(昭和17年)8月23日トラック着。
1942年(昭和17年)8月24日トラック発。 輸送船団を護衛してガダルカナル島に向かう。
1942年(昭和17年)8月26日ガダルカナル島沖で敵機の攻撃をうけ、直撃弾により航行不能となる。
1942年(昭和17年)8月30日ショートランド着。 応急修理。
1942年(昭和17年)9月6日ショートランド発。
1942年(昭和17年)9月9日トラック着。 修理
1942年(昭和17年)9月30日トラック発。 サイパン経由で呉に向かう。
1942年(昭和17年)10月8日呉着。 大修理工事。
1943年(昭和18年)1月1日藤永田造船所に回航。 修理。
1943年(昭和18年)3月31日修理工事完成。
1943年(昭和18年)4月1日第五艦隊第一水雷戦隊第九駆逐隊に編入(北方部隊に編入)。
1943年(昭和18年)4月8日横須賀へ回航。
1943年(昭和18年)4月15日横須賀発。 摩耶直衛。
1943年(昭和18年)4月19日大湊着。
1943年(昭和18年)4月27日大湊発。 摩耶直衛。
1943年(昭和18年)4月29日幌筵着。
1943年(昭和18年)5月6日占守島に回航。
1943年(昭和18年)5月25日占守島発。 アッツ島輸送の前衛として出撃。
1943年(昭和18年)5月30日作戦中止により反転、帰投。
1943年(昭和18年)6月6日敵潜水艦攻撃のため出動。 視界不良のためロバッカ岬の140度12カイリの地点で、沼風と接衝、自力で帰投。 一等巡洋艦羽黒に横付け応急修理。
1943年(昭和18年)6月12日幌筵発。
1943年(昭和18年)6月16日大湊着。
1943年(昭和18年)7月19日函館に回航。 入渠修理。
1943年(昭和18年)9月22日修理工事完成。 大湊に回航。
1943年(昭和18年)9月25日大湊、幌筵方面で船団護衛(11月13日まで)。
1943年(昭和18年)11月13日大湊着。
1943年(昭和18年)11月16日大湊で修理に着手。
1943年(昭和18年)12月20日修理完成。
1943年(昭和18年)12月28日大湊発。 幌筵に向かう。
1944年(昭和19年)1月1日幌筵着。
1944年(昭和19年)1月7日帝洋丸を護衛し横須賀に向かう。
1944年(昭和19年)1月13日横須賀着。 入渠修理整備。
1944年(昭和19年)1月24日出渠。
1944年(昭和19年)2月3日横須賀発。 5日まで雲鷹護衛。
1944年(昭和19年)2月7日大湊着。
1944年(昭和19年)2月25日大湊発。
1944年(昭和19年)2月29日幌筵着。 船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)3月5日幌筵発。 船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)3月10日大湊着。
1944年(昭和19年)3月14日大湊発。
1944年(昭和19年)3月15日厚岸着。
1944年(昭和19年)3月16日厚岸発。 
1944年(昭和19年)3月16日釧路着。 同日、釧路発。 ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖(北緯42度20分、東経144度35分)でアメリカ潜水艦「トートグ(Tautog)」の雷撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)3月31日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p36
  2. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.東京,光人社,1997,p157-162
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.p180
  4. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p51
  6. 日本駆逐艦史.東京,海人社,1992,p84,世界の艦船.No453 1991/7増刊号 増刊第34集
  7. 田村俊夫.特型駆逐艦―吹雪型3タイプ23隻全軌跡.東京,学研パブリッシング,1992,p99,歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 70.(ISBN-13: 978-4056060201)

謝辞

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