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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1985年(昭和60年)10月26日建立。 合祀者102柱。(1)

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駆逐艦浦波慰霊碑

駆逐艦浦波慰霊碑

碑文

駆逐艦浦波慰霊碑

駆逐艦浦波について

浦波
吹雪型駆逐艦

「浦波」は吹雪型駆逐艦の10番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。

峯風型から睦月型までの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。

軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦「吹雪」は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。

「浦波」は開戦時には第十九駆逐隊に所属してマレー半島攻略作戦に参加した。 1942年(昭和17年)に入ると、パレンバン、ジャワ、アンダマン攻略作戦に参加、6月にはミッドウェー作戦に主力部隊の護衛として参加したが、作戦終了後の帰路、「磯波」「と接触事故を起こし小破した。 8月にガダルカナル戦が生起するとショートランドに進出、ガダルカナル島輸送に11回従事した。 11月24日には第三次ソロモン海戦に参加、同海戦で沈没した「綾波」の乗員を救助した。

1943年(昭和18年)1月、航空母艦「冲鷹」を護衛して横須賀に帰投、浦賀ドックで機銃増備工事を実施した。 2月に再びトラックに進出、トラック〜ラバウル輸送に従事。その後「敷波」と共に外南洋部隊に加わって、マダン揚陸作戦、八一号作戦、コロンバンガラ島輸送作戦に従事した。 3月にスラバヤ方面に移動するが、船団護衛からの帰途の4月2日にマカッサル付近で座礁した。 スラバヤに回航された「浦波」は8月13日まで修理工事をうけた。 9月20日、南西方面艦隊第十六戦隊に編入され、シンガポールを中心に輸送・護衛任務に就いた。 1944年(昭和19年)4月ダバオからサイパン、グアム、タラカンへの輸送任務に従事、6月2日には渾作戦のためダバオを出撃したが、作戦中止となり、輸送部隊をソロンまで輸送した。 7月にシンガポールで修理を受けた後、フィリピン方面への人員、物件輸送に従事していたが、10月26日、オルモック輸送の帰途、パネイ島北西でアメリカ空母機の爆撃を受け沈没した。(2)(3)

艦名

艦名は海象。 浦に立つ波。(4) 浦波のたよりもしらぬあまを舟うきなからこそ世を渡りけれ(二条為氏/宝治御百首)

要目(2)(5)(6)(7)

新造時計画値1944年9月
艦種一等駆逐艦
建造所佐世保海軍工廠
基準排水量 ※11,680トン
公試排水量 ※21,980トン
垂線間長112.00m
水線長115.30m
全長118.00m
水線最大幅10.36m
平均喫水3.20m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力50,000馬力
速力38.0ノット
燃料重油:475トン
航続力14ノットで4,500浬
兵装50口径三年式12.7cm連装砲A型3基
留式7.7mm単装機銃2基
61cm一二年式3連装発射管3基
八年式魚雷18本
50口径三年式12.7cm連装砲A型2基
九六式25mm3連装機銃4基
九六式25mm連装機銃1基
九六式25mm単装機銃10基
九三式13mm連装機銃2基
61cm一二年式3連装発射管3基
乗員219名
その他開戦時までに7.7mm単装機銃2基を13mm連装機銃2基に換装。

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(3)

年月日履歴
1927年(昭和2年)4月26日第四十四号駆逐艦と命名。
1927年(昭和2年)4月28日佐世保海軍工廠において起工。
1928年(昭和3年)8月1日「浦波」と改名。
1929年(昭和4年)6月30日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1941年(昭和16年)11月20日第十九駆逐隊に所属。 呉発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 マレー半島上陸輸送船団護衛。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。
1941年(昭和16年)12月19日マレー、コタバル沖でオランダ潜水艦「O-20」を砲撃および爆雷攻撃により撃沈。
1941年(昭和16年)12月24日カムラン湾発。
1941年(昭和16年)12月28日馬公着。 燃料補給。
1941年(昭和16年)12月31日カムラン湾発。 バンコクへ船団護衛。
1942年(昭和17年)1月11日カムラン湾着。 湾口哨戒に従事。
1942年(昭和17年)2月11日カムラン湾発。 パレンバン攻略作戦に従事。
1942年(昭和17年)2月27日蘭印部隊に編入され、ジャワ攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)3月5日シンガポール着。
1942年(昭和17年)3月16日アンダマン上陸作戦支援。
1942年(昭和17年)4月3日ベンガル湾機動作戦に従事。
1942年(昭和17年)4月11日シンガポール着。
1942年(昭和17年)4月13日シンガポール発。 内地に向かう。
1942年(昭和17年)4月22日呉着。 
1942年(昭和17年)5月27日柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。
1942年(昭和17年)6月9日磯波と接触により小破。
1942年(昭和17年)7月2日呉工廠で修理および探信儀工事完成。
1942年(昭和17年)7月16日清澄丸を護衛して、柱島発。
1942年(昭和17年)7月23日高雄を経て、シンガポール着。
1942年(昭和17年)7月28日ベンガル湾交通破壊作戦(B作戦)のためシンガポール発。
1942年(昭和17年)7月31日メルギー着。
1942年(昭和17年)8月8日メルギー発。 ラバウルに向かう途中航空母艦翔鶴および第十一戦隊等の直衛。
1942年(昭和17年)8月29日ラバウル着。
1942年(昭和17年)8月30日増援部隊に編入され、ショートランドに進出。 ガダルカナル島輸送に11回従事。
1942年(昭和17年)11月14日第三次ソロモン海戦に参加。 駆逐艦綾波の乗員を救助後、第四戦隊を護衛し、18日トラック着。
1943年(昭和18年)1月14日冲鷹を護衛してトラック発。
1943年(昭和18年)1月20日横須賀着。
1943年(昭和18年)2月7日冲鷹を護衛して横須賀発。
1943年(昭和18年)2月12日トラック着。
1943年(昭和18年)2月21日マダン揚陸作戦のためラバウル発。
1943年(昭和18年)2月24日陸軍部隊を揚陸して、ラバウル着。
1943年(昭和18年)2月28日八一号作戦(ラエ輸送)のため、ラバウル発。
1943年(昭和18年)3月4日不成功のため、ラバウル着。
1943年(昭和18年)3月7日ラバウル発。 コロンバンガラ輸送作戦に従事。
1943年(昭和18年)3月13日ラバウルを経てパラオ着。
1943年(昭和18年)3月14日パラオ発。
1943年(昭和18年)3月19日バリックパパンを経てスラバヤ着。
1943年(昭和18年)3月22日堅集団船団を護衛してスラバヤ着。
1943年(昭和18年)3月30日ソロン着。 帰途の4月2日、マカッサル付近で座礁。
1943年(昭和18年)4月26日スラバヤ着。 修理。
1943年(昭和18年)8月13日修理完了。
1943年(昭和18年)9月20日南西方面艦隊第十六戦隊に編入。
1944年(昭和19年)4月1日シンガポール発。 青葉、鬼怒とともに作戦輸送に従事。
1944年(昭和19年)4月7日ダバオ着。
1944年(昭和19年)4月13日ダバオ発。 サイパン、グアムに陸兵輸送。
1944年(昭和19年)4月28日ダバオ着。
1944年(昭和19年)4月30日ダバオ発。 タラカン船団輸送。
1944年(昭和19年)6月2日渾作戦のためダバオを出撃したが、作戦中止となり、輸送部隊をソロンまで輸送。
1944年(昭和19年)7月6日シンガポールで修理。
1944年(昭和19年)8月7日マニラへの人員、物件輸送に従事。
1944年(昭和19年)10月18日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)10月21日ブルネイ発。 陸軍部隊を輸送して23日マニラ着。
1944年(昭和19年)10月26日オルモック輸送の帰途、パネイ島北西でアメリカ空母機の爆撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)12月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p23-24
  2. aa雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.東京,光人社,1997,p157-162
  3. aa前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.p181
  4. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p51
  6. 日本駆逐艦史.東京,海人社,1992,p84,世界の艦船.No453 1991/7増刊号 増刊第34集
  7. 田村俊夫.特型駆逐艦―吹雪型3タイプ23隻全軌跡.東京,学研パブリッシング,1992,p132,歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 70.(ISBN-13: 978-4056060201)

謝辞

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