1986年(昭和61年)10月19日建立。 合祀者10柱。(1)
吹雪型駆逐艦
「磯波」は吹雪型駆逐艦の9番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。
峯風型から睦月型までの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。
軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦「吹雪」は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。
「磯波」は開戦時には第十九駆逐隊に所属してマレー半島攻略作戦に参加した。 1942年(昭和17年)に入ると、パレンバン、ジャワ、アンダマン攻略作戦に参加、6月にはミッドウェー作戦に主力部隊の護衛として参加したが、作戦終了後の帰路、「浦波」と接触事故を起こし損傷した。 9月まで修理を受けた「磯波」は10月にトラックに進出、同方面での護衛任務に就いた。 11〜12月にはラエ、ブナ輸送作戦に従事、12月末からガダルカナル島輸送に3回従事した。 1943年(昭和18年)2月に丙三号輸送に参加後パラオに回航、3月にはスラバヤ方面に移動した。 その後、同方面での船団護衛任務に従事していたが、4月9日セレベス島ブートン水道でアメリカ潜水艦「トートグ(Tautog)」の雷撃を受け沈没した。(2)(3)
艦名は海象。 磯にうちよせる波。海岸近くの浅い海の波。(4) たかし山松鳴き方の松風屋麓の浦の磯波の声(藤原雅有)
新造時 | 1943年1月 | |
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艦種 | 一等駆逐艦 | |
建造所 | 浦賀船渠 | |
基準排水量 ※1 | 1,680トン | |
公試排水量 ※2 | 1,980トン | |
垂線間長 | 112.00m | |
水線長 | 115.30m | |
全長 | 118.00m | |
水線最大幅 | 10.36m | |
平均喫水 | 3.20m | |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基 | |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン2基 | |
推進器軸 | 2軸 | |
出力 | 50,000馬力 | |
速力 | 38.0ノット | |
燃料 | 重油:475トン | |
航続力 | 14ノットで4,500浬 | |
兵装 | 50口径三年式12.7cm連装砲A型3基 留式7.7mm単装機銃2基 61cm一二年式3連装発射管3基 八年式魚雷18本 | 50口径三年式12.7cm連装砲A型3基 九三式13mm連装機銃3基 61cm一二年式3連装発射管3基 |
乗員 | 219名 | |
その他 | 開戦時までに7.7mm単装機銃2基を13mm連装機銃2基に換装。 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1926年(大正15年)10月19日 | 浦賀船渠において起工。 |
1927年(昭和2年)11月24日 | 進水。 |
1928年(昭和3年)6月30日 | 竣工。 第43号駆逐艦と命名。 呉鎮守府籍に編入。 |
1928年(昭和3年)8月1日 | 「磯波」と改名。 |
1941年(昭和16年)11月20日 | 第十九駆逐隊に所属。 呉発。 |
1941年(昭和16年)11月26日 | 三亜着。 |
1941年(昭和16年)12月4日 | 三亜発。 マレー半島上陸輸送船団護衛。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | カムラン湾着。 |
1941年(昭和16年)12月13日 | カムラン湾発。 |
1941年(昭和16年)12月22日 | マレー半島上陸輸送船団を護衛してカムラン湾着。 |
1941年(昭和16年)12月24日 | カムラン湾発。 |
1941年(昭和16年)12月28日 | 馬公着。 燃料補給。 |
1941年(昭和16年)12月31日 | カムラン湾発。 バンコクへ船団護衛。 |
1942年(昭和17年)1月11日 | カムラン湾着。 湾口哨戒に従事。 |
1942年(昭和17年)2月11日 | カムラン湾発。 パレンバン攻略作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)2月27日 | 蘭印部隊に編入され、ジャワ攻略作戦支援。 |
1942年(昭和17年)3月5日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)3月16日 | アンダマン上陸作戦支援。 |
1942年(昭和17年)4月3日 | ベンガル湾機動作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)4月11日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)4月13日 | シンガポール発。 内地に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月22日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)5月27日 | 柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月9日 | 浦波と接触により小破。 |
1942年(昭和17年)6月15日 | 横須賀着。 入渠修理。 内海で警戒。 |
1942年(昭和17年)10月4日 | 第二航空戦隊を護衛して佐伯発。 |
1942年(昭和17年)10月9日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)10月11日 | トラック発。 直衛任務に従事。 |
1942年(昭和17年)10月27日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)11月9日 | トラック発。 水上機母艦日進を直衛。 |
1942年(昭和17年)11月17日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)11月18日 | トラック発。 玄洋丸を直衛。 |
1942年(昭和17年)10月4日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)11月19日 | トラック発。 |
1942年(昭和17年)11月22日 | ラバウル着。 |
1942年(昭和17年)11月23日 | ラエ輸送作戦に従事(不成功)。 |
1942年(昭和17年)12月13日 | ブナ輸送作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)12月16日 | ウエワク、マダン攻略作戦。 |
1942年(昭和17年)12月26日 | ウイックハム攻略作戦。 |
1942年(昭和17年)12月31日 | ガダルカナル島輸送に従事(3回)。 |
1943年(昭和18年)1月5日 | ラバウル発。 護衛に従事。 |
1943年(昭和18年)1月13日 | 呉着。 |
1943年(昭和18年)2月6日 | 丙三号輸送作戦(ウエワク輸送作戦)に従事。 |
1943年(昭和18年)2月25日 | ウエワク着。 同日、ウエワク発。 |
1943年(昭和18年)3月2日 | パラオ着。 |
1943年(昭和18年)3月3日 | パラオ発。 |
1943年(昭和18年)3月10日 | スラバヤ〜シンガポール間の直衛に従事。 |
1943年(昭和18年)3月21日 | スラバヤ着。 |
1943年(昭和18年)3月23日 | スラバヤ発。 船団護衛。 |
1943年(昭和18年)3月29日 | アンボン着。 同日、アンボン発。 |
1943年(昭和18年)3月31日 | スラバヤ着。 |
1943年(昭和18年)4月5日 | スラバヤ発。 |
1943年(昭和18年)4月9日 | 船団護衛中、セレベス島ブートン水道でアメリカ潜水艦「トートグ(Tautog)」の雷撃を受け沈没。 |
1943年(昭和18年)8月1日 | 除籍。 |
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