1970年(昭和45年)5月14日建立。 合祀者42柱。(1)
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綾波型駆逐艦
「綾波」は吹雪型駆逐艦の11番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 本艦以降は改正が加えられているため綾波型とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。
峯風型から睦月型までの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。
軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦吹雪は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。
「綾波」は開戦時には第十九駆逐隊に所属してマレー半島攻略作戦に参加した。 1942年(昭和17年)に入ると、パレンバン、ジャワ、アンダマン攻略作戦に参加、6月にはミッドウェー作戦に主力部隊の護衛として参加した。 8月にガダルカナル戦が生起するとショートランドに進出、ガダルカナル島輸送に7回従事した。 11月24日の第三次ソロモン海戦で被弾、航行不能となり、翌25日サボ島南東3海里の地点で沈没した。(2)(3)
艦名は海象。 重なり合って寄せてくる波。(4) くれないの梢を色におりかけてあやなす波のきよき岸かげ(六角益通)
新造時 | |
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艦種 | 一等駆逐艦 |
建造所 | 藤永田造船所 |
基準排水量 ※1 | 1,680トン |
公試排水量 ※2 | 1,980トン |
垂線間長 | 112.00m |
水線長 | 115.30m |
全長 | 118.00m |
水線最大幅 | 10.36m |
平均喫水 | 3.20m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基 |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン2基 |
推進器軸 | 2軸 |
出力 | 50,000馬力 |
速力 | 38.0ノット |
燃料 | 重油:475トン |
航続力 | 14ノットで4,500浬 |
兵装 | 50口径三年式12.7cm連装砲A型3基 留式7.7mm単装機銃2基 61cm一二年式3連装発射管3基 八年式魚雷18本 |
乗員 | 219名 |
その他 | 開戦時までに7.7mm単装機銃2基を13mm連装機銃2基に換装。 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1928年(昭和3年)1月20日 | 藤永田造船所において起工。 |
1929年(昭和4年)10月5日 | 進水。 |
1930年(昭和5年)4月30日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1941年(昭和16年)11月20日 | 第十九駆逐隊に所属。 呉発。 |
1941年(昭和16年)11月26日 | 三亜着。 |
1941年(昭和16年)12月4日 | 三亜発。 マレー半島上陸輸送船団護衛。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | カムラン湾着。 |
1941年(昭和16年)12月13日 | カムラン湾発。 |
1941年(昭和16年)12月23日 | 輸送船団の護衛を完了し、カムラン湾着。 |
1941年(昭和16年)12月24日 | カムラン湾発。 |
1941年(昭和16年)12月28日 | 馬公着。 |
1941年(昭和16年)12月31日 | カムラン湾発。 バンコクへ船団護衛。 |
1942年(昭和17年)1月9日 | 陸軍兵をパナマ丸に移乗。 |
1942年(昭和17年)1月11日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月15日 | カムラン湾発。 湾外哨戒に従事。 |
1942年(昭和17年)1月19日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月23日 | 陸軍輸送船団を護衛しカムラン湾発。 |
1942年(昭和17年)1月30日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)2月10日 | バンカ、パレンバン攻略作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)2月21日 | カムラン湾発。 サンジャックに回航。 |
1942年(昭和17年)2月25日 | 一等巡洋艦鳥海の警戒艦としてシンガポールに回航。 |
1942年(昭和17年)3月8日 | サバン島、タタラジャ上陸作戦の直接護衛に従事。 |
1942年(昭和17年)3月15日 | ペナン発。 アンダマン攻略作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)3月19日 | ペナン着。 |
1942年(昭和17年)3月21日 | ペナン発。 ビルマ攻略作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)4月11日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)4月18日 | シンガポール発。 内地に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月22日 | 呉着。 入渠整備。 |
1942年(昭和17年)5月27日 | 柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月16日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)6月21日 | 人員輸送艦として長良、浜風と柱島発。 |
1942年(昭和17年)6月22日 | 横須賀着。 |
1942年(昭和17年)6月23日 | 横須賀発。 同日、柱島着。 |
1942年(昭和17年)6月30日 | 呉発。 第十一駆逐隊とともにサンクレメンテ丸を護衛。 |
1942年(昭和17年)7月2日 | 奄美大島着。 |
1942年(昭和17年)7月15日 | 奄美大島発。 |
1942年(昭和17年)7月17日 | 高雄着。 |
1942年(昭和17年)7月18日 | 高雄発。 |
1942年(昭和17年)7月23日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)7月28日 | ベンシンガポール発。 |
1942年(昭和17年)7月31日 | メルギー着。 |
1942年(昭和17年)8月7日 | メルギー発。 マカッサルを経て、21日トラック着。 機動部隊に編入される。 |
1942年(昭和17年)8月23日 | トラック発。 極東丸を護衛。 |
1942年(昭和17年)9月5日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)9月12日 | トラック発。 国洋丸を護衛してショートランドに進出。 25日よりガダルカナル島輸送に7回従事。 |
1942年(昭和17年)11月14日 | 第三次ソロモン海戦に参加。 第四戦隊のガダルカナル島砲撃に呼応し、サボ島の西側より突入。 敵艦隊と交戦し被弾、航行不能となる。 |
1942年(昭和17年)11月15日 | サボ島南東3海里の地点で沈没。 |
1942年(昭和17年)12月15日 | 除籍。 |
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