1967年(昭和42年)3月26日建立。 合祀者112柱。(1)
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「第三十四号」駆潜艇は第二十八号型駆潜艇の1艇である。
第一次世界大戦時、ドイツのUボートに対抗するために連合国側は多数の木造小型艇を局地用対潜艦艇として投入した。 日本海軍も第一次世界大戦の戦訓に鑑み、大正末期ごろより、雑役船の名のもとに対潜用の小艇を試作していたが、正規の艦艇としての駆潜艇は、昭和8年度の追加計画による第一号型駆潜艇2隻が最初であった。 第一号型駆潜艇は、基準排水量226トン、艦本式22号8型ディーゼル機関2基で速力24ノットを発揮した。 兵装は毘式40mm連装機銃1基と爆雷36個を搭載、艦尾に爆雷投下軌条1組を設置したが爆雷投射機は装備されなかった。 本型は友鶴事件により1934年(昭和9年)に性能改善工事が実施された結果、公試排水量が280トンから377トンに増加し、速力が21ノットに低下した。
昭和9年の第二次補充計画では、300トン級1隻、150トン級3隻が建造された。 このうち300トン級が第三号型駆潜艇で、友鶴事件の影響により、全長を短縮し喫水を大きくして復原性能を改善している。 武装は毘式40mm連装機銃1基と爆雷36個を搭載、九四式爆雷投射機2基を装備して対潜能力を強化している。 150トン級はイギリスのソーニクロフト社の設計を参考に、艦政本部で新たに設計を実施した第五十一号型駆潜艇である。 本型は機関の問題や小型過ぎる艦型による凌波性の不良で、以後、同型艦は建造されなかった。 第四号型駆潜艇は昭和12年の第三次補充計画で9隻が建造された。 本型は第三号型の改正型で、復元性および凌波性の改善対策が採られた。
昭和14年の第四次補充計画で4隻が建造された第十三号型駆潜艇は戦時量産性を考慮したもので、以後の駆潜艇の主力として終戦までに49隻が完成している。 それまでの駆潜艇が重量軽減のため細密な構造を採り、主機関も高出力軽量の精密なもので量産性を阻害していた。 本型では、基準排水量を増大して構造を簡略化、機関も速力低下をしのび、信頼性の高い艦本式23号8型ディーゼル機関とした。 兵装は、40mm機銃が対潜水艦戦に威力不足であることから、8cm単装高角砲に強化されている。 「第二十八号」からは戦時簡略化が実施され、船体および艤装の簡易化が図られたが、あまり徹底したものではなかった。(2)
新造時 | |
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艦種 | 駆潜艇 |
建造所 | 播磨造船所 |
基準排水量 ※1 | 420トン |
公試排水量 ※2 | 442トン |
垂線間長 | 46.50m |
水線長 | 49.00m |
全長 | 51.00m |
水線最大幅 | 6.7m |
喫水 | 2.63m |
主機 | 艦本式23号乙8型ディーゼル機関2基、2軸 |
出力 | 1,700馬力 |
速力 | 16.0ノット |
燃料 | 重油:16トン |
航続力 | 14ノットで2,000浬 |
乗員 | 80名 |
兵装 | 40口径三年式8cm単装高角砲1基 九三式13mm連装機銃1基 九四式爆雷投射機2基 爆雷投下軌条1基 爆雷36個 |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1941年(昭和16年)8月281日 | 播磨造船所において起工。 |
1941年(昭和16年)12月20日 | 進水。 |
1942年(昭和17年)8月31日 | 竣工。 横須賀防備戦隊に編入。 東京湾口哨戒に従事。 |
1942年(昭和17年)12月 | 第八艦隊第二特別根拠地隊に編入。 ウエワク方面で哨戒に従事。 |
1943年(昭和18年)10月 | 呉に帰投、修理後、ウエワク輸送に従事。 |
1944年(昭和19年)3月 | 中部太平洋艦隊第三十根拠地隊に編入。 パラオ方面で船団護衛に従事。 |
1944年(昭和19年)10月 | 第一南遣艦隊第十五特別根拠地隊に編入。 シンガポール方面で船団護衛に従事。 |
1945年(昭和20年)3月26日 | 小アンダマン島東方でイギリス駆逐艦「ソーマレス(Saumarez)」他の砲撃を受け沈没。 |
1945年(昭和20年)8月10日 | 除籍。 |
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