1920年(大正9年)1月19日建立。 合祀者48柱。
第一次世界大戦中の1918年(大正7年)11〜12月、南太平洋及び印度洋方面の警備任務の帰途に発生した悪性流行性感冒による殉職者の慰霊碑である。 碑表の題字及び裏面金属板は1948年(昭和23年)の墓碑資格審査により剥脱されたものを、1957年(昭和32年)10月に題字のみ修復されたものである。(1)
筑摩型二等巡洋艦
「矢矧」は筑摩型防護巡洋艦の2番艦である。
本型は1907年(明治40年)策定の海軍力整備計画により、1912年(明治45年)5月から7月にかけて3隻(「筑摩」、「矢矧」、「平戸」)が建造された。 本型の船体形状は平甲板型船体となっており、艦首形状は前型の「利根」と同じクリッパー型艦首である。 また、高速発揮のため、船体の長さ/幅比が9.5に達する長大な船型を採用した。 兵装はアームストロング式15cm速射砲単装8基、8cm速射砲単装4基、45cm魚雷発射管単装3基を搭載した。 尚、1919年(大正八年)に三年式 8cm高角砲を2、3番煙突の間に2基搭載した。 機関は比較研究のため、3隻で異なっていた。 主缶はイ号艦本式混焼缶16基であったが、「筑摩」は4基が過熱器付とされた。が組み合わされ、ボイラー数の増加に伴って初の4本煙突艦となった。 主機には巡洋艦として初めて直結式蒸気タービンが採用された。 「筑摩」と「平戸」はブラウン・カーチス式衝動型直結タービン2基で2軸推進であったが、「矢矧」はパーソンズ式反動タービン4基で4軸推進であった。 これにより最大出力22,500馬力で最大速力26.0ノットの計画であった。 公試運転では、「筑摩」26.83ノット、「平戸」26.87ノット、「矢矧」27.14ノットでいずれも計画を上回った。
竣工直後の明治45年(1912年)大演習で、哨戒、索敵に高速巡洋艦の有用性を示したが、巡洋艦に対する高速化の要求がさらに高まったため、以後は軽巡洋艦の建造に移行することとなる。(2)(3)
艦名は河川名。 矢作(矢矧)川は、その源を長野県の中央アルプス南端の大川入山(標高1,908m)に発し、愛知・岐阜県境の山岳地帯を流れて、巴川を合流して三河平野に出て、岡崎市で乙川を合流し、河口から12km付近で矢作古川と分派して三河湾に注ぐ、幹川流路延長118km、流域面積1,830km2の河川である。 (4)
艦種 | 二等巡洋艦 |
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建造所 | 三菱合資会社三菱造船所 |
基準排水量 ※1 | 4,400トン |
常備排水量 ※1 | 5,000トン |
垂線間長 | 134.11m |
水線最大幅 | 14.22m |
喫水 | 5.11m |
主機 | パーソンズ式直結タービン2基、4軸 |
主缶 | イ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼)16基 |
出力 | 22,500馬力 |
速力 | 26.0ノット |
燃料 | 石炭:1,000トン 重油:300トン |
航続力 | |
乗員 | 414名 |
兵装 | 45口径四一式15cm単装砲8基 40口径四一式8cm単装砲4基 45cm保式水上魚雷発射管3門 |
装甲 | 舷側:89mm 甲板:57mm 司令塔:102mm |
その他 | 新造時 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1910年(明治43年)6月20日 | 三菱合資会社三菱造船所において起工。 |
1911年(明治44年)10月3日 | 進水。 |
1912年(明治45年)7月27日 | 竣工。 |
1914年(大正3年)10月2日〜1915年(大正4年)1月17日 | 第一次大戦。 南洋群島占領作戦。 |
1917年(大正6年)2月27日〜1919年(大正8年)1月26日 | シンガポール基地からインド洋警備。 |
1922年(大正11年)8月29日〜9月10日 | シベリア撤兵で沿海州警備。 |
1940年(昭和15年)4月1日1940年(昭和15年)4月1日 | 除籍。 |
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