1935年(昭和10年)度の秋の大演習は第一、第二艦隊で編成された常備連合艦隊(青軍)と、臨時に編成された第四艦隊(赤軍)との間で、同年7月から開始され、9月下旬に両艦隊の対抗海上決戦が実施される予定であった。 9月下旬、第四艦隊(赤軍)は津軽海峡を抜けて東航し、本州東方海面に進出しつつあったが、そのとき北上してきた台風2号と遭遇した。 、9月26日13時頃には風力27m、15時30分には30mとなり、大波浪が艦隊に襲いかかった。 この波浪により各艦は相当の損害を受けた。 主なものを以下に示す。
この事件発生をうけ、10月10日に野村吉三郎大将を委員長とする査問会が組織された。 委員には、のちに連合艦隊司令長官となる山本五十六中将(後に元師海軍大将)と古賀峯一少将(後に元師海軍大将)も名を連ねていた。 10月21日には、小林蹐造大将を委員長とする臨時艦艇性能改善調査委員会が海軍省に設置され、既成艦ばかりではなく、建造中および計画中のすべての艦船についての船体増強対策が立てられることとなった。 委員会は5ヶ月以上にわたって調査活動を行い、翌1936年(昭和11年)4月に各艦の強度上の計算案がまとまった。 その結果、以後の建造艦からは主要強力材(ストレングスメンバー)相互の電気溶接は中止となり、従来のように鋲(リベット)構造を主用する方針となった。 また船体補強対策が未成艦ばかりではなく、既成艦に対しても実施され、一般の小艦艇にいたってはドック入りの上、ほとんど丸裸同然に外板、甲板を取り外し、艦橋は船体と切り離して丸太で支えた状態で゜一切の補強が施された。 各工廠と民間造船所は全力で性能改善工事にあたり、大多数の艦の工事は1936年度末までに終了し、残余の艦の工事も1938年度末に完了した。 第四艦隊事件以降、艦艇の建造への電気溶接の適用が縮小され、造船技術的には後退したが、この対策以後、日本海軍艦艇の波浪による損害は皆無となった。
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