1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかれて漸減させる作戦を打ち出した。 日本海軍は艦隊型大型駆逐艦として吹雪型(特型)駆逐艦を1928年(昭和3年)〜1933年(昭和8年)に24隻竣工させた。 しかしながら、1930年(昭和5年)のロンドン条約により、駆逐艦の保有量を対米英比率7割とされ、個艦排水量などにも制限がかけられた。 このため日本海軍は、次の初春型では基準排水量1,400トンとし、速力37ノット、兵装は吹雪型とほぼ同等の12.7cm砲5門、61cm魚雷9射線という設計とした。 主砲は前部に連装1基と単装1基を背負式に、後部に連装1基を装備した。 魚雷発射管3基のうち、3番発射管は2番発射管後部上構の高い位置に配置されていた。 このような兵装を施した上で基準排水量1,400に収めたため、材料の切り詰めや電気溶接の大幅採用などが実施された。 しかしながら、1番艦初春は完成時の基準排水量が計画値を130トン上回り、兵装の装備位置の高さとあいまって、きわめて重心の高い艦となった。
初春型駆逐艦
「初春」の公試運転では舵角10度付近で38度という大傾斜を生じ、傾斜限界も60度と、きわめて復原性能が悪いことが判明した。 このため舷側にバルジを装着して復原性能を改善することとなった。 建造中であった4番艦の「初霜」にも同様の工事が施された。 さらに、1934年(昭和9年)3月に発生した友鶴事件により初春型は復原力の根本的改正を余儀なくされた。 改正の内容は、2番単装砲の後部への移設、3番発射管の撤去、艦橋の縮小、バラストの搭載等であった。 「初霜」は進水後にこれらの改造が実施され、1934年(昭和9年)9月27日に竣工した。 この結果、復原性能は大幅に改善された。 また、1935年(昭和10年)8月から船体補強工事が実施され、最終的に基準排水量は計画を約380トン上回った約1,700トンとなり、速力は約3ノット低下した。
つづく白露型では、基準排水量1,685トンとし、主砲は性能改善後の初春型と同等としたが、魚雷発射管は4連装2基8射線とした。 航続力は18ノットで4,000浬と前級の14ノット時の値を維持したが、速力(34ノット)とともに、用兵側の満足は得られなかった。 白露型の兵装、速力、航続力では不十分であると判断され、次の朝潮型では1937年(昭和12年)以降の条約破棄を前提に、基準排水量を1,961トンにまで増大し、速力35ノット、航続力18ノットで4,000浬、12.7cm連装砲3基、魚雷発射管は4連装2基の計画とした。 計画中の1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等により、基準排水量は2,000トンとなった。 朝潮型は兵装面では吹雪型(特型)に匹敵し、復原性能と船体強度に関しても十分なものであったが、速力と航続力において性能不足が指摘されていた。
朝潮型の次に計画された陽炎型は、速力と航続力の増大を望まれたが、艦型が過大とならないよう、速力を35ノットに抑え、航続力を18ノットで5,000浬とした。 本型の艦型は、朝潮型とほぼ同等であるが、友鶴事件および第四艦隊事件の教訓を始めから織り込んだ新設計であった。 兵装は朝潮型と同等としたが、魚雷に関しては新造時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した。 本型の完成により、艦隊型大型駆逐艦の航続力に対する要求は達成され、次級の夕雲型とともに開戦時から中盤までの主力駆逐艦として活躍した。(1)
陽炎型駆逐艦
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