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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1895年(明治28年)8月建立。

1894年(明治27年)9月17日の黄海海戦戦死者の慰霊碑。 本碑は当初、眼鏡橋畔に建立されたが、1962年(昭和37年)4月に海上自衛隊呉警備隊正門横に移設された。 その後、1981年(昭和56年)に現在の場所に移設された。(1)

軍艦比叡戦没者之碑

碑文

軍艦比叡戦没者之碑碑文

碑文の書写しにあたっては、字体および配置を極力合わせるようにしたが、使用している環境の限界により、一部相違しているものがある。 上掲碑文中の傍線は、実際の碑文では異体字が使用されていることを示すために、管理人が附したものである。

軍艦比叡について

1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱と台湾出兵の結果、海軍力の不足を痛感した日本海軍は、1875年(明治8年)に3隻の軍艦をイギリスに発注した。 このうちの1隻が装甲フリゲイトの「比叡」である。 設計は、後年イギリス海軍の造船局長を務めたエドワード・ジェームス・リード(Sir Edward James Reed)による。

本艦はイギリス建造であるが兵装は、ドイツのクルップ式後装砲を採用しており、17cm単装砲3基、15cm単装砲6基を装備した。 防御は137mmの舷側装甲を装着していた。

日清戦争の黄海海戦には、 連合艦隊主隊の一艦として参加し、敵中に孤立するという危機に見舞われたが、辛くも沈没は免れた。 日露戦争には海防艦として参加し、旅順港警備等に従事した。(2)(3)(4)

艦名

艦名は山岳名。 比叡山は京都・滋賀の境にそびえる山である。 山嶺に二高所があり、東を大比叡または大岳(848m)、西を四明岳(839m)という。 古来、王城鎮護の霊山として有名。 東の中腹に天台宗の総本山延暦寺がある。(5)

要目(2)(6)

艦種コルベット
艦型3檣バーク型
船質鉄骨木皮
建造所Milford Haven Shipbuilding & Engineering Co., Pembroke Dock(Wales, United Kingdom)
常備排水量 ※12,250トン
垂線間長67.06m
水線最大幅12.5m
喫水5.33m
主機横置還動式2気筒連成レシプロ蒸気機械1基、1軸
主缶円缶(石炭専焼)6基
出力2,270馬力
速力13ノット
燃料石炭:340トン
航続力
乗員286名
兵装20口径克式17cm単装砲3基
克式15cm単装砲6基
7.5cm単装砲2基
諾典式25mm4連装機砲4基
諾典式11mm5連装機砲2基
36cm朱式水上魚雷発射管1門
装甲水線137mm
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(7)(8)

年月日履歴
1875年(明治8年)9月24日Milford Haven Shipbuilding & Engineering Co., Pembroke Dock(Wales, United Kingdom)において起工。
1877年(明治10年)6月11日進水。
1878年(明治11年)2月25日竣工。
1878年(明治11年)5月22日横須賀着。
1878年(明治11年)7月10日扶桑、金剛と共に、横浜で天覧に浴す。
1880年(明治13年)4月8日品川発。 インド、ペルシャ、東南アジア訪問。
1880年(明治13年)9月29日横浜着。
1882年(明治15年)8月8日〜9月18日京城の変で朝鮮警備。
1884年(明治17年)12月4日甲申事変勃発。 従軍。
1889年(明治22年)8月13日品川発。 インド洋、地中海方面練習航海(海兵15期)
1890年(明治23年)2月22日品川着。
1890年(明治23年)10月16日コンスタンチノープルへ向け、品川発。 練習航海(海兵17期)を兼ねトルコ軍艦エルトゥルル遭難者送還。
1891年(明治24年)5月10日品川着。
1891年(明治24年)9月30日品川発。 豪州、マニラ方面練習航海(海兵18期)
1892年(明治25年)4月10日品川着。
1894年(明治27年)7月23日〜日清戦争。
1894年(明治27年)9月17日黄海海戦に参加。 大破。
1894年(明治27年)10月2日黄海海戦参加艦船松島、西京丸と共に、呉で天覧に浴す。
1897年(明治30年)4月13日横須賀発。 北アメリカ、ハワイ方面練習航海(海兵24期)
1897年(明治30年)9月20日横須賀着。
1898年(明治31年)3月21日三等海防艦に類別。
1898年(明治31年)12月14日横須賀発。 北アメリカ、ハワイ方面練習航海(海兵26期)
1899年(明治32年)8月28日横須賀着。
1902年(明治35年)2月19日横須賀発。 豪州、マニラ方面練習航海(海兵29期)
1902年(明治35年)8月25日横須賀着。
1903年(明治36年)12月28日〜日露戦争。 舞鶴鎮守府警備艦、のち旅順港警備に従事。
1911年(明治44年)4月1日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p61-63
  2. ab日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p9,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  3. 前掲.日本巡洋艦史.p151
  4. 瀬戸利春.黄海海戦.歴史群像,2009,12月号,第18巻6号通巻98号,p.42-45
  5. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  6. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p37
  7. 前掲.日本巡洋艦史.p185
  8. 日本軍艦史.東京,海人社,1995,p101-107,世界の艦船.No400 1995/8増刊号 増刊第44集