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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1983年(昭和58年)6月19日建立。 合祀者300柱。(1)

軍艦隼鷹慰霊碑

碑文

軍艦隼鷹慰霊碑

軍艦隼鷹について

表1 橿原丸要目
総トン数28.950トン
載貨重量10,415トン
主機タービン2基
出力56,260馬力(最大)、45,000馬力(経済)
垂線間長206.30m
26.7m
深さ13.9m
喫水9.175m(満載)、6.705m(軽荷)
速力24.0ノット(保証)、25.5ノット(最大)
旅客1等:220、2等:120、3等:550

「隼鷹」は、日本郵船の客船「橿原丸」を改装した航空母艦である。 「橿原丸」は大型優秀船舶建造助成施設により建造された客船である。 第一次大戦後の造船および海運不況は昭和初期にその極に達した。 そこで造船業とそれに関連する中小企業の維持振興を図り、新鋭船の建造により後日の海外進出と国防強化のために、三次にわたる船舶改善施設が実施された。 これにより日本の造船・海運界は不況を脱したが、1936年(昭和11年)頃になると世界情勢の緊迫や満州事変の勃発により、造船・海運界への対策は、不況克服から国防強化のための施設実施へと切り替えられることとなった。 このような情勢下で、1937年(昭和12年)4月1日から優秀船舶建造助成施設が実施された。 本施設により、後に特設巡洋艦となった大阪商船の報国丸型や、航空母艦に改装された日本郵船の新田丸型が建造された。

橿原丸
橿原丸級貨客船

この優秀船舶建造助成施設と同時に、サンフランシスコ航路に配する大型客船に対して助成することが計画され、昭和13年度から大型優秀船舶建造助成施設として実施された。 これは建造費を2,400万円とし、その60%を政府補助とするものであった。 助成を受けるための条件は、全長210m、幅25m以上、速力24ノット、総トン数26,500〜27,000トン、戦時には3ヶ月で航空母艦に改装可能なこと等であった。 これを受けて建造されることとなったのが、日本郵船の橿原丸型2隻で、「橿原丸」は1939年(昭和14年)3月20日に三菱重工業長崎造船所で、「出雲丸」は同年11月30日に川崎重工艦船工場(神戸)で起工された。 「橿原丸」は当時において日本最大の客船となるはずであったが、建造途中の1940年(昭和15年)10月に航空母艦への改装が決定され、翌11月より改装工事に着手した。

隼鷹
飛鷹型航空母艦竣工時

飛鷹型の飛行甲板は客船時のプロムナードデッキを延長したもので、2層の格納庫を設けていたが、常用48機+補用10機の搭載機のうち常用8〜9機は露天繋止とされた。 武装は12.7cm連装高角砲6基12門、25mm3連装機銃8基24門を備えていた。 機関は客船時のものをそのまま用いていたが、蒸気条件は圧力40kg/cm2、温度420℃と日本海軍艦艇の中で最高のものであった。 艦橋は煙突と一体化したアイランド型で、これは建造中の航空母艦大鳳に採用予定の構造を、実験を兼ねて取り入れたものである。 速力がやや遅く、弱装甲であったが航空母艦としては「蒼龍」・「飛龍」に準ずる能力をもっていた。

「隼鷹」
飛鷹型航空母艦マリアナ沖海戦時

「橿原丸」は1941年(昭和16年)1月21日に買収され、1942年(昭和17年)5月3日に特設航空母艦「隼鷹」として竣工した。 竣工直後に「龍驤」とともにアリューシャン作戦に参加、その後はミッドウェー海戦で喪失した航空母艦の穴埋めとしてソロモン方面の作戦に従事、「翔鶴」、「瑞鶴」とともに空母機動部隊の中核を担った。 1943年(昭和18年)に入ると、い号作戦に飛行機隊を派遣した他、物件輸送や航空機輸送に従事した。 この間、11月5日には沖の鳥島沖でアメリカ潜水艦「ハリバット(Halibat)」の雷撃を受け損傷、呉工廠で修理された。 マリアナ沖海戦に参加中の1944年(昭和19年)6月20日、煙突附近に直撃弾2発うけ損傷したが、航海には支障なく内地へ帰還した。

「隼鷹」
航空母艦「隼鷹」最終時

レイテ沖海戦には参加せず、マニラ方面への輸送任務に従事していたが、12月9日に長崎県野母崎南方でアメリカ潜水艦「シーデビル(Sea Devil)」の雷撃を受け損傷した。 佐世保工廠での修理は翌年3月までかかり、その後は出撃の機会のないまま終戦を迎えた。 戦後は引き上げ任務の特別輸送艦にも指定されず、佐世保船舶工業で解体された。(2)(3)(4)

艦名

艦名の「隼鷹」は漢成語で、はやぶさの意。(5)

要目(3)(4)(6)(7)

竣工時1944年(昭和19年)6月マリアナ海戦時
艦種航空母艦
建造所三菱重工業長崎造船所
基準排水量 ※124,140トン
公試排水量 ※227,500トン
垂線間長206.30m
水線長215.30m
全長219.32m
最大幅26.7m
喫水8.16m
飛行甲板長さ210.3m×幅27.3m
主缶三菱式水管缶(重油専焼)6基
主機三菱ツェリー式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力56,260馬力
速力25.5ノット
燃料重油:4,100トン
航続力18ノットで12,251浬
装甲舷側50mm
乗員1,187名
兵装40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機銃8基
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機銃16基
九六式25mm単装機銃12基
航空機零式艦上戦闘機21機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機9機
零式艦上戦闘機27機
艦上爆撃機彗星9機
九九式艦上爆撃機9機
艦上攻撃機天山6機
その他アリューシャン作戦時の搭載機
零式艦上戦闘機20機
九九式艦上爆撃機19機
最終時の兵装
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機銃19基
九六式25mm連装機銃4基
九六式25mm単装機銃30基
12cm28連装噴進砲6基

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(4)(8)

年月日履歴
1939年(昭和14年)3月20日橿原丸(日本郵船)として、三菱重工業長崎造船所において起工。
1940年(昭和15年)11月航空母艦改造に着手。
1941年(昭和16年)1月21日買収。
1941年(昭和16年)6月26日進水。 特設軍艦籍に編入。 「隼鷹」と命名。 特設航空母艦に類別。
1942年(昭和17年)5月3日竣工。 第一航空艦隊第四航空戦隊に編入。 内海西部で待機。
1942年(昭和17年)5月22日呉発。 徳山で燃料補給後、出撃。
1942年(昭和17年)5月25日大湊着。 北方部隊第二機動部隊となる。
1942年(昭和17年)5月26日大湊発。
1942年(昭和17年)6月3日搭載機がダッチハーバー攻撃。
1942年(昭和17年)6月4日搭載機がダッチハーバー攻撃。
1942年(昭和17年)6月24日大湊着。
1942年(昭和17年)6月29日大湊発。
1942年(昭和17年)7月3日呉着。
1942年(昭和17年)7月14日軍艦に編入。 航空母艦に類別。 第三艦隊第二航空戦隊となる。
1942年(昭和17年)8月13日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)8月22日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)9月12日呉発。
1942年(昭和17年)9月17日祝島着。
1942年(昭和17年)9月22日祝島発。
1942年(昭和17年)9月25日呉着。
1942年(昭和17年)10月3日呉発。 同日、佐伯着。
1942年(昭和17年)10月4日佐伯発。 トラックへ向かう。
1942年(昭和17年)10月11日トラック発。 ソロモン作戦に従事。
1942年(昭和17年)10月17日ガダルカナル島を攻撃。
1942年(昭和17年)10月26日南太平洋海戦に参加。 アメリカ航空母艦「エンタープライズ(Enterprise)」、「ホーネット(Hornet)」を攻撃。
1942年(昭和17年)10月30日トラック着。
1942年(昭和17年)11月9日トラック発。 第十一戦隊の上空直衛、ついで第四戦隊の上空直衛に従事。
1942年(昭和17年)11月18日トラック着。
1942年(昭和17年)12月16日トラック発。 ウエワク攻略作戦に従事。
1942年(昭和17年)12月20日トラック着。
1943年(昭和18年)1月15日トラック発。 ウエワク揚陸支援。
1943年(昭和18年)1月17日飛行機隊をウエワクに派遣。
1943年(昭和18年)1月19日トラック着。
1943年(昭和18年)1月31日トラック発。
1943年(昭和18年)2月9日トラック着。
1943年(昭和18年)2月16日トラック発。 内地へ向かう。
1943年(昭和18年)2月21日佐伯着。 同日、佐伯発。
1943年(昭和18年)2月22日呉着。
1943年(昭和18年)3月16日呉発。 内海西部へ回航。
1943年(昭和18年)3月20日内海西部発。 同日、佐伯着。
1943年(昭和18年)3月22日佐伯発。 トラックへ向かう。
1943年(昭和18年)3月27日トラック着。 待機。
1943年(昭和18年)4月1日い号作戦により、飛行機隊をラバウルに派遣。
1943年(昭和18年)4月17日い号作戦終了により、飛行機隊は原隊に復帰。
1943年(昭和18年)6月22日飛行機隊をルオットに派遣、第二十二航空戦隊の指揮下に入る。
1943年(昭和18年)7月12日ルオット派遣隊が復帰。
1943年(昭和18年)7月15日飛行機隊をラバウル、カビエンへ派遣。
1943年(昭和18年)7月19日トラック発。 内地へ向かう。
1943年(昭和18年)7月25日呉着。
1943年(昭和18年)7月26日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)7月31日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)8月9日呉発。 同日、岩国着。
1943年(昭和18年)8月13日岩国発。 同日、佐伯着。
1943年(昭和18年)8月15日佐伯発。 第三三一航空隊の輸送に従事。
1943年(昭和18年)8月28日シンガポール着。 輸送物件揚陸。
1943年(昭和18年)9月1日派遣飛行機隊は現地において、第五八二航空隊および第二〇四航空隊に編入される。
1943年(昭和18年)9月4日シンガポール発。 物件輸送に従事。
1943年(昭和18年)9月11日呉着。
1943年(昭和18年)9月17日呉発。 同日、岩国着。
1943年(昭和18年)9月19日岩国発。 物件輸送に従事。
1943年(昭和18年)9月24日トラック着。 輸送物件揚陸。
1943年(昭和18年)9月29日トラック発。 内地へ向かう。
1943年(昭和18年)10月5日呉着。
1943年(昭和18年)10月12日呉発。 同日、岩国着。
1943年(昭和18年)10月13日岩国発。 同日、佐伯着。
1943年(昭和18年)10月14日佐伯発。 飛行機輸送に従事。
1943年(昭和18年)10月19日トラック着。
1943年(昭和18年)10月31日トラック発。 内地へ向かう。
1943年(昭和18年)11月5日沖の鳥島沖でアメリカ潜水艦「ハリバット(Halibat)」の雷撃を受け損傷。 利根に曳航されて呉に向かう。
1943年(昭和18年)11月6日呉着。
1943年(昭和18年)11月19日呉工廠に入渠。 修理。
1943年(昭和18年)11月25日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)12月21日呉工廠に入渠。 修理。
1944年(昭和19年)2月29日呉工廠を出渠。
1944年(昭和19年)3月26日呉発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)4月11日岩国沖発。 同日、徳山着。
1944年(昭和19年)4月15日徳山発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)4月29日呉発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)5月1日岩国沖発。 同日、平郡島沖着。
1944年(昭和19年)5月4日平郡島沖発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)5月6日第六五二航空隊の飛行機を収容。 岩国沖発。 同日、佐伯着。
1944年(昭和19年)5月11日佐伯発。 タウイタウイへ向かう。
1944年(昭和19年)5月16日タウイタウイ着。 機動部隊と合流。
1944年(昭和19年)6月13日タウイタウイ発。 サイパン島西方へ向かう。
1944年(昭和19年)6月14日ギマラス泊地着。
1944年(昭和19年)6月15日ギマラス泊地発。
1944年(昭和19年)6月19日マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月20日煙突附近に直撃弾2発うけ損傷。
1944年(昭和19年)6月22日中城湾着。
1944年(昭和19年)6月23日中城湾発。
1944年(昭和19年)6月24日柱島着。
1944年(昭和19年)7月3日柱島発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)7月6日呉工廠に入渠。 修理。
1944年(昭和19年)7月14日呉工廠を出渠。
1944年(昭和19年)8月21日呉発。 同日、内海西部着。
1944年(昭和19年)8月26日柱島に回航。
1944年(昭和19年)9月11日柱島発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)9月26日呉発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)10月21日岩国沖発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)10月27日呉発。
1944年(昭和19年)10月28日佐世保着。
1944年(昭和19年)10月30日佐世保発。 マニラへ魚雷を輸送。
1944年(昭和19年)11月1日馬公着。
1944年(昭和19年)11月2日馬公発。
1944年(昭和19年)11月6日ブルネイ着。
1944年(昭和19年)11月8日ブルネイ発。
1944年(昭和19年)11月10日マニラ着。 輸送物件揚陸。
1944年(昭和19年)11月11日マニラ発。
1944年(昭和19年)11月13日馬公着。
1944年(昭和19年)11月14日馬公発。
1944年(昭和19年)11月15日第二艦隊第一航空戦隊に編入。
1944年(昭和19年)11月17日呉着。
1944年(昭和19年)11月23日呉発。 同日、八島沖着。
1944年(昭和19年)11月24日寺島水道着。
1944年(昭和19年)11月24日寺島水道発。
1944年(昭和19年)12月3日馬公着。
1944年(昭和19年)12月6日馬公発。
1944年(昭和19年)12月9日南方から帰投中、長崎県野母崎南方でアメリカ潜水艦「シーデビル(Sea Devil)」の雷撃を受け損傷。
1944年(昭和19年)12月9日佐世保着。 翌年3月末まで佐世保工廠で修理。
1945年(昭和20年)2月11日第一航空戦隊より除かれる。
1945年(昭和20年)4月1日佐世保恵美須湾内で偽装を行い、以後、行動することなく終戦を迎える。
1945年(昭和20年)4月20日第四予備艦となる。
1945年(昭和20年)6月20日警備艦となる。
1945年(昭和20年)11月30日除籍。
1946年(昭和21年)6月1日〜1947年(昭和22年)86月1日佐世保船舶工業で解体。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p86-87
  2. 日本造船学会編.昭和造船史 第1巻.東京,原書房,1978,p311―316.明治百年史叢書;第207巻
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 7巻 空母隼鷹・飛鷹・瑞鳳型・竜鳳・千歳型・信濃・伊吹・大鷹型・神鷹・海鷹.東京,光人社,1996,p29-35
  4. abc日本航空母艦史.東京,海人社,1994,世界の艦船.No481 1994/5増刊号 増刊第40集,p88
  5. 片桐大自.聯合艦隊軍艦銘銘伝.東京,光人社,2003,p168.(ISBN4-7698-1151-9)
  6. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p7,45,46
  7. 軍艦メカ2日本の空母.東京,光人社,1986,p105
  8. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 7巻 空母隼鷹・飛鷹・瑞鳳型・竜鳳・千歳型・信濃・伊吹・大鷹型・神鷹・海鷹.p42

謝辞

「隼鷹」、「飛鷹」のアイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

橿原丸級貨客船のアイコンは天翔様の「天翔艦隊」より、ご提供頂いた。