1978年(昭和53年)11月19日建立。 合祀者498柱
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二等巡洋艦「熊野」1944年
「熊野」は最上型巡洋艦の4番艦である。 最上型はロンドン海軍軍縮条約下で建造されたが、このとき日本は重巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径15.5cm(6.1インチ)超、20.3cm(8インチ)以下)の保有枠を使い切っており、備砲口径15.5cmの軽巡洋艦として建造し、有事の際には20.3cm砲に換装する計画とした。 しかしながら、軽巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径12.7cm(5インチ)超、15.5cm(6.1インチ)以下)の保有枠を使っても単艦排水量を8,500トンとせざるを得ず、きわめて無理のある設計となった。
建造中に友鶴事件が発生したため、船体線図を改め、中甲板以上の甲板高さを低下し、重心降下および重量軽減をはかるなどの性能改善対策が施された。 「熊野」の浸水直前の1935年(昭和10年)9月、「最上」および「三隈」が第四艦隊事件に遭遇した。 他艦に比べて「最上」と「三隈」の損害は軽かったが、「最上」では艦首外板に皺が生じた。 「最上」、「三隈」は公試運転で発生した、船体振動による推進器付近の外板および肋材の亀裂、艦首外板の皺発生、3番砲塔の旋回困難などの不良に対して船体の補強が実施されていたが、再度の事故発生により抜本的な対策が必要となった。 このため、「熊野」は工事を中断し、「最上」、「三隈」に準じた性能改善工事を実施し、1937年(昭和12年)10月31日に竣工した。 ロンドン海軍軍縮条約破棄後、計画通りに20.3cm砲に換装されることとなり、1939年(昭和14年)5月20日〜10月20日に呉工廠で施工された。
開戦後は、マレー、蘭印、ビルマ、ジャワ島、ベンガル湾掃討作戦に参加した。 1942年(昭和17年)6月に参加したミッドウェー海戦では「最上」が大破、「三隈」が沈没したが「熊野」は被害なく内地に帰投した。 その後は、ソロモン方面の作戦参加、ラバウル方面への輸送任務や陸上作戦支援任務等に従事した。 1943年(昭和18年)中ごろより、戦訓による機銃の増備や、電波探信儀の装備などが実施された。 1944年(昭和19年)10月に参加したレイテ島沖海戦ではサマール島沖で被雷、コロン湾に回航された。 さらにマニラ湾で応急修理ののち、内地に向かったが、ルソン島サンタクルーズでアメリカ軍機の攻撃をうけて沈没した。(2)(3)
艦名は河川名。 熊野川は、奈良県南部の大峰山脈の雄峰である山上ヶ岳・稲村ヶ岳・大普賢岳の間に発して西流し、大塔村坂本で南流に転じ、途中、大台ヶ原を水源とする北山川と合流、南流して熊野灘に注ぐ、幹川流路延長 183km、流域面積 2,360km2の河川である。 (3)
新造時 | 1939年主砲換装後 | 1944年6月 | |
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艦種 | 二等巡洋艦 | → | |
建造所 | 川崎造船所 | ||
基準排水量 ※1 | 8,500トン(計画) | 12,000トン | |
公試排水量 ※2 | 13,440トン | 13,887トン | |
垂線間長 | 187.7m | → | |
水線長 | 197.0m | 198.06m | |
水線最大幅 | 19.20.m | 19.15m | |
水線下最大幅 | 20.20m | 20.20m | |
喫水 | 5.90m | 5.90m | |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基 | → | |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン4基 | → | |
推進軸 | 4軸 | → | |
出力 | 152,000馬力 | → | |
速力 | 35.0ノット(計画) | 35.0ノット(計画) | |
燃料 | 重油:2,280トン | 重油:2,215トン | |
航続力 | 14ノットで8,000浬 | 14ノットで8,000浬 | |
装甲 | 水線100mm、甲板35mm | → | |
兵装 | 60口径三年式15.5cm3連装砲5基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九三式13mm連装機銃2基 九六式25mm3連装機銃4基 九〇式61cm3連装発射管一型4基 九〇式魚雷24本 | 50口径三年式二号20cm連装砲5基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm3連装機銃4基 九三式13mm連装機銃2基 九〇式61cm3連装発射管一型4基 九三式魚雷18本 |
50口径三年式二号20cm連装砲5基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm3連装機銃8基 九六式25mm連装機銃4基 九六式25mm単装機銃24基 九〇式61cm3連装発射管一型4基 九三式魚雷18本 |
射出機 | 呉式二号五型2基 | 呉式二号五型2基 | 呉式二号五型2基 |
航空機 | 水上偵察機3機(定数) | 水上偵察機3機(定数) | 水上偵察機3機(定数) |
乗員 | 894名 | ||
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
---|---|
1934年(昭和9年)4月5日 | 川崎造船所において起工。 |
1936年(昭和11年)10月15日 | 進水。 |
1937年(昭和12年)10月31日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1937年(昭和12年)12月1日 | 第二艦隊第七戦隊に編入。 |
1938年(昭和13年)4月9日 | 佐世保発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)4月14日 | 高雄着。 |
1938年(昭和13年)10月17日 | 佐世保発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)10月23日 | 馬公着。 |
1939年(昭和14年)3月21日 | 佐世保発。 北支方面行動。 |
1939年(昭和14年)4月3日 | 佐世保着。 |
1939年(昭和14年)5月20日 | 予備艦となる。 改装工事に着手。 |
1939年(昭和14年)11月15日 | 第二艦隊第七戦隊に編入。 |
1940年(昭和15年)3月27日 | 中城湾発。 南支方面行動。 |
1940年(昭和15年)4月2日 | 基隆着。 |
1941年(昭和16年)1月23日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)1月27日 | 馬公着。 同日、馬公発。 |
1941年(昭和16年)1月29日 | 海南島三亜着。 |
1941年(昭和16年)2月6日 | 三亜発。 |
1941年(昭和16年)2月10日 | バンコク沖着。 |
1941年(昭和16年)2月13日 | サイゴン着。 |
1941年(昭和16年)2月14日 | サイゴン発。 |
1941年(昭和16年)3月11日 | 三亜、馬公、高雄をへて有明湾着。 |
1941年(昭和16年)3月28日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)3月29日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)4月5日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)4月11日 | 呉工廠を出渠。 |
1941年(昭和16年)4月25日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)4月26日 | 三河湾着。 |
1941年(昭和16年)5月17日 | 三河湾発。 同日、伊勢湾着。 |
1941年(昭和16年)5月22日 | 伊勢湾発。 同日、三河湾着。 |
1941年(昭和16年)6月4日 | 三河湾発。 |
1941年(昭和16年)6月6日 | 別府着。 |
1941年(昭和16年)6月10日 | 別府発。 |
1941年(昭和16年)6月12日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)6月19日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)6月23日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)6月27日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)6月30日 | 横須賀着。 |
1941年(昭和16年)7月12日 | 呉に回航。 |
1941年(昭和16年)7月16日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)7月22日 | 三亜着。 |
1941年(昭和16年)7月25日 | 三亜発。 |
1941年(昭和16年)7月30日 | サイゴン沖着。 同日、サイゴン沖発。 |
1941年(昭和16年)8月7日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)8月19日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)8月20日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)8月31日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)9月7日 | 呉工廠を出渠。 |
1941年(昭和16年)11月23日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)11月26日 | 三亜着。 |
1941年(昭和16年)12月4日 | 三亜発。 マレー上陸作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)12月27日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月5日 | カムラン湾発。 |
1942年(昭和17年)1月10日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月16日 | カムラン湾発。 |
1942年(昭和17年)1月19日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月23日 | カムラン湾発。 アナンバス攻略作戦支援。 |
1942年(昭和17年)1月30日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)2月10日 | カムラン湾発。 バンカ、パレンバン上陸作戦を支援。 |
1942年(昭和17年)2月17日 | アナンバス着。 |
1942年(昭和17年)2月24日 | アナンバス発。 ジャワ攻略支援。 |
1942年(昭和17年)3月5日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)3月9日 | シンガポール発。 北部スマトラ上陸支援。 |
1942年(昭和17年)3月15日 | シンガポール着。 燃料補給。 |
1942年(昭和17年)3月20日 | シンガポール発。 アンダマン作戦支援。 |
1942年(昭和17年)3月26日 | メルギー着。 燃料補給。 |
1942年(昭和17年)4月1日 | メルギー発。 ベンガル湾機動作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)4月6日 | ベンガル湾において商船7隻を撃沈。 |
1942年(昭和17年)4月11日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)4月13日 | シンガポール発。 内地に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月22日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)4月27日 | 呉工廠に入渠。 |
1942年(昭和17年)5月4日 | 呉工廠を出渠。 |
1942年(昭和17年)5月22日 | 柱島発。 ミッドウェー攻略部隊支援隊。 |
1942年(昭和17年)5月26日 | グアム着。 |
1942年(昭和17年)5月28日 | グアム発。 ミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)6月5日 | ミッドウェー海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月13日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)6月17日 | トラック発。 |
1942年(昭和17年)6月23日 | 呉着。 整備、補給。 |
1942年(昭和17年)7月14日 | 第三艦隊第七戦隊となる。 |
1942年(昭和17年)7月17日 | 柱島発。 |
1942年(昭和17年)7月25日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)7月28日 | シンガポール発。 ベンガル湾方面行動。 |
1942年(昭和17年)7月30日 | メルギー着。 |
1942年(昭和17年)8月8日 | メルギー発。 |
1942年(昭和17年)8月14日 | バリックパパン着。 機動部隊前衛となる。 |
1942年(昭和17年)8月16日 | バリックパパン発。 |
1942年(昭和17年)8月24日 | 第二次ソロモン海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)9月5日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)9月10日 | トラック発。 諸訓練および哨戒。 |
1942年(昭和17年)9月23日 | トラック着。 対潜警戒。 |
1942年(昭和17年)10月11日 | トラック発。 機動部隊支援部隊。 |
1942年(昭和17年)10月26日 | 南太平洋海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)10月30日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)11月2日 | トラック発。 |
1942年(昭和17年)11月7日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)11月15日 | 呉工廠に入渠。 |
1942年(昭和17年)11月20日 | 呉工廠を出渠。 |
1942年(昭和17年)11月22日 | 呉発。 |
1942年(昭和17年)11月27日 | マニラ着。 |
1942年(昭和17年)11月29日 | マニラ発。 陸軍部隊輸送。 |
1942年(昭和17年)12月4日 | ラバウル着。 |
1942年(昭和17年)12月5日 | ラバウル発。 |
1942年(昭和17年)12月6日 | カビエン着。 |
1942年(昭和17年)12月12日 | カビエン発。 同日、ロレンゴウ着。 |
1942年(昭和17年)12月13日 | ロレンゴウ発。 |
1942年(昭和17年)12月14日 | カビエン着。 |
1943年(昭和18年)2月11日 | カビエン発。 |
1943年(昭和18年)2月13日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)3月24日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)3月29日 | 呉着。 |
1943年(昭和18年)4月6日 | 呉工廠に入渠。 |
1943年(昭和18年)4月15日 | 呉工廠を出渠。 |
1943年(昭和18年)5月20日 | 徳山発。 |
1943年(昭和18年)5月21日 | 横須賀に回航、 北方作戦待機。 |
1943年(昭和18年)5月30日 | 横須賀発。 |
1943年(昭和18年)6月1日 | 柱島に回航。 |
1943年(昭和18年)6月13日 | 横須賀に回航、 |
1943年(昭和18年)6月16日 | 横須賀発。 第五防空隊輸送任務。 |
1943年(昭和18年)6月21日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)6月23日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)6月25日 | ラバウル着。 第五防空隊揚陸。 同日、ラバウル発。 |
1943年(昭和18年)6月27日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)7月9日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)7月11日 | ラバウル着。 |
1943年(昭和18年)7月18日 | ラバウル発。 コロンバンガラに向かう。 |
1943年(昭和18年)7月20日 | 雷撃機の攻撃をうけ、右舷後部に被雷、小破。 |
1943年(昭和18年)7月21日 | ラバウル着。 応急修理。 |
1943年(昭和18年)7月29日 | ラバウル発。 |
1943年(昭和18年)7月31日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)8月1日 | 工作艦明石に横付け修理。 |
1943年(昭和18年)8月28日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)9月2日 | 呉着。 |
1943年(昭和18年)9月4日 | 呉工廠に入渠。 |
1943年(昭和18年)10月8日 | 呉工廠を出渠。 |
1943年(昭和18年)11月3日 | 呉発。 |
1943年(昭和18年)11月8日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)11月24日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)11月26日 | クェゼリン着。 |
1943年(昭和18年)11月27日 | クェゼリン発。 |
1943年(昭和18年)11月28日 | ブラウン着。 |
1943年(昭和18年)11月29日 | ブラウン発。 |
1943年(昭和18年)11月30日 | ルオット着。 警泊。 |
1943年(昭和18年)12月3日 | ルオット発。 |
1943年(昭和18年)12月5日 | トラック着。 警泊。 |
1943年(昭和18年)12月26日 | トラック発。 |
1943年(昭和18年)12月27日 | カビエン輸送に従事したが、アメリカ機に発見され、反転。 |
1943年(昭和18年)12月28日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)12月29日 | トラック発。 再びカビエン輸送に従事。 |
1943年(昭和18年)12月31日 | カビエン着。 同日、カビエン発。 |
1944年(昭和19年)1月1日 | トラック着。 警泊、訓練。 |
1944年(昭和19年)2月1日 | トラック発。 |
1944年(昭和19年)2月4日 | パラオ着。 訓練、待機。 |
1944年(昭和19年)2月16日 | パラオ発。 |
1944年(昭和19年)2月21日 | リンガ泊地着。 以後、同方面で待機、訓練。 |
1944年(昭和19年)5月11日 | リンガ泊地発。 |
1944年(昭和19年)5月14日 | タウイタウイ着。 |
1944年(昭和19年)5月15日 | タウイタウイ発。 |
1944年(昭和19年)5月16日 | タラカン着。 |
1944年(昭和19年)5月17日 | タラカン発。 同日、タウイタウイ着。 待機。 |
1944年(昭和19年)6月13日 | タウイタウイ発。 |
1944年(昭和19年)6月14日 | ギマラス着。 |
1944年(昭和19年)6月15日 | ギマラス発。 |
1944年(昭和19年)6月19日 | マリアナ沖海戦に参加。 |
1944年(昭和19年)6月22日 | 中城湾着。 |
1944年(昭和19年)6月23日 | 中城湾発。 |
1944年(昭和19年)6月25日 | 呉着。 |
1944年(昭和19年)7月8日 | 呉発。 陸軍部隊輸送。 |
1944年(昭和19年)7月16日 | シンガポール着。 リンガ泊地回航。 待機。 |
1944年(昭和19年)10月18日 | リンガ泊地発。 |
1944年(昭和19年)10月20日 | ブルネイ泊地着。 |
1944年(昭和19年)10月22日 | ブルネイ泊地発。 栗田艦隊第二部隊に編入。 |
1944年(昭和19年)10月25日 | サマール島沖で被雷。 |
1944年(昭和19年)10月26日 | コロン着。 |
1944年(昭和19年)10月27日 | コロン発。 |
1944年(昭和19年)10月28日 | マニラ着。 |
1944年(昭和19年)11月5日 | マニラ発。 |
1944年(昭和19年)11月6日 | アメリカ潜水艦「レイ(Ray)」の雷撃をうけ損傷。 |
1944年(昭和19年)11月7日 | 道了丸に曳航されてルソン島サンタクルーズ港着。 |
1944年(昭和19年)11月25日 | アメリカ軍機の攻撃をうけて沈没。 |
1945年(昭和20年)1月10日 | 除籍 |
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