1980年(昭和55年)11月23日建立。 合祀者29柱。(1)
鵜来型海防艦
「稲木」は鵜来型海防艦の12番艦である。
日本海軍の海防艦は、昭和初期までは旧式となった戦艦、巡洋艦などが、この艦種に充当されており、軍艦に類別されていた。 日本海軍が海防艦の新造計画を持ったのは1931年(昭和6年)の第一次補充計画が最初で、従来と異なる北方警備用の小型艦(1,200トン級)であった。 しかし、このときは予算が成立せず、1937年(昭和12年)の第三次補充計画にいたって、ようやく建造された。 このとき建造されたのが占守型海防艦で1941年(昭和16年)3月までに4隻が竣工した。 主要目は基準排水量860トン、速力19.7ノット、12cm単装砲3基、爆雷投射機1基、爆雷18個で、北方行動用に補助缶を装備していた。
開戦直前に、この種の護衛艦不足に気がついた日本海軍は、昭和16年度戦時建造計画(マル急計画:○の中に急)で30隻の海防艦を計画した。 このうち14隻が擇択型で、占守型をわずかに改正し、艦橋、上構、艦首尾の直線化、爆雷搭載数の増加(18個→36個)等を実施したものであったが、北方行動用に補助缶は残された。 本型の対潜・対空能力は、その後の戦況を考えると不十分なものであった。
マル急計画で計画された残りの16隻は、擇択型をさらに改設計した御蔵型である。 主砲を12cm高角砲3門(連装1基、単装1基)に改め、爆雷投射機を2基、爆雷搭載数を120個として、対潜・対空能力を強化したものであった。また、北方行動用の補助缶も廃止されている。 しかしながら、船体の簡素化は徹底しておらず、量産性に欠けるものであった。 このため、御蔵型の建造は8隻で打ち切られ、鵜来型の建造に移行した。
鵜来型においては、船型、艤装の徹底的な簡素化を実施し、曲線部分を平面化した設計を行った。 また、電気溶接を大幅に用い、ブロック建造法を採用、これにより平均建造期間が御蔵型の9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。 兵装面では、掃海具を装備せず、従来の爆雷投射機を2基に加え三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、対潜攻撃能力を大幅に向上させている。 尚、計画艦のうち9隻は御蔵型と同様の爆雷装備とした日振型として完成している。(2)
艦名は島嶼名。 備讃諸島の一島。 小豆島とその西の豊島との間に位置する。(3)
新造時 | |
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艦種 | 海防艦 |
建造所 | 三井造船玉野造船所 |
基準排水量 ※1 | 940トン |
公試排水量 ※2 | 1,020トン |
垂線間長 | 72.50m |
水線長 | 76.50m |
全長 | 78.77m |
水線最大幅 | 9.10m |
喫水 | 3.05m |
主機 | 艦本式22号10型ディーゼル機関2基、2軸 |
出力 | 4,200馬力 |
速力 | 19.5ノット |
燃料 | 重油:120トン |
航続力 | 16ノットで5,000浬 |
乗員 | 150名 |
兵装 | 45口径十年式12cm連装高角砲1基 45口径十年式12cm単装高角砲1基 九六式25mm3連装機銃5基 九六式25mm単装機銃1基 8cm迫撃砲1基 九四式爆雷投射機2基 三式爆雷投射機16基 爆雷投下軌条2基 九五式爆雷120個 |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1944年(昭和19年)5月15日 | 三井造船玉野造船所において起工。 |
1944年(昭和19年)9月25日 | 進水。 |
1944年(昭和19年)12月16日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1944年(昭和19年)12月26日 | 呉発。 佐伯着。 訓練開始。 |
1945年(昭和20年)1月26日 | 第一護衛艦隊に付属。 佐伯発。 |
1945年(昭和20年)1月27日 | 呉着。 |
1945年(昭和20年)1月29日 | 呉発。 門司に回航。 ヒ95船団、モタ34船団と合同、待機。 |
1945年(昭和20年)1月31日 | 門司発。 シンガポールに向かう。 |
1945年(昭和20年)2月14日 | シンガポール着。 補給休養。 |
1945年(昭和20年)2月24日 | シンガポール発。 ヒ96船団を護衛して門司に向かう。 |
1945年(昭和20年)3月13日 | 門司着。 |
1945年(昭和20年)3月14日 | 門司発。 同日、呉着。 修理整備。 |
1945年(昭和20年)3月31日 | 呉発。 門司に向かうが、部埼で触雷、呉に引き返す。 |
1945年(昭和20年)4月1日 | 呉着。 入渠修理。 |
1945年(昭和20年)4月25日 | 第十二海防隊に編入。 |
1945年(昭和20年)4月26日 | 呉発。 門司に回航。 モシ05船団と合同、待機。 |
1945年(昭和20年)4月28日 | 門司発。 上海に向かう。 |
1945年(昭和20年)5月2日 | 船団はアメリカ潜水艦の攻撃を受け、海防艦「男鹿」、「美保丸」が被雷沈没。 3日まで遭難者救助にあたる。 |
1945年(昭和20年)5月4日 | 上海着。 |
1945年(昭和20年)5月8日 | 上海発。 シモ04船団を護衛して鎮海に向かう。 |
1945年(昭和20年)5月16日 | 鎮海着。 同日、鎮海発。 佐世保に向かう。 |
1945年(昭和20年)5月19日 | 佐世保着。 補給待機。 |
1945年(昭和20年)5月23日 | 佐世保発。 駕莫洋、麗水付近を哨戒。 |
1945年(昭和20年)5月30日 | 駕莫洋着。 |
1945年(昭和20年)6月10日 | 駕莫洋発。 哨戒任務。 |
1945年(昭和20年)6月11日 | 鎮海着 |
1945年(昭和20年)6月13日 | 鎮海発。 対潜哨戒、船団護衛。 |
1945年(昭和20年)6月22日 | 萩着。 待機。 |
1945年(昭和20年)6月25日 | 萩発。 同日、舞鶴着。 補給待機。 |
1945年(昭和20年)7月1日 | 稚内着。 |
1945年(昭和20年)7月3日 | 稚内発。 同日、小樽着。 補給待機。 |
1945年(昭和20年)7月15日 | 小樽発。 対潜掃蕩。 |
1945年(昭和20年)7月17日 | 小樽着。 |
1945年(昭和20年)7月19日 | 小樽発。 大湊に向かう。 |
1945年(昭和20年)7月20日 | 大湊着。 補給待機。 |
1945年(昭和20年)7月26日 | 大湊発。 三陸方面への船団護衛。 |
1945年(昭和20年)8月9日 | 八戸に在泊中、アメリカ空母機の爆撃を受け沈没。 |
1945年(昭和20年)9月15日 | 除籍。 |
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