1985年(昭和60年)4月5日建立。 合祀者168柱。(1)
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陽炎型駆逐艦
「天津風」は陽炎型駆逐艦の9番艦である。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかれて漸減させる作戦を打ち出した。 日本海軍は艦隊型大型駆逐艦として吹雪型(特型)駆逐艦を1928年(昭和3年)〜1933年(昭和8年)に24隻竣工させた。 しかしながら、1930年(昭和5年)のロンドン条約により、駆逐艦の保有量を対米英比率7割とされ、個艦排水量などにも制限がかけられた。 このため日本海軍は、次の初春型では基準排水量1,400トンとし、兵装は吹雪型とほぼ同等という設計とした。 初春型は友鶴事件の発生により復原力の根本的改正を余儀なくされ、この結果、兵装は削減(魚雷発射管3連装3基→2基)され、速力も大幅に低下(約3ノット)した。 つづく白露型では、基準排水量1,685トンとし、主砲は性能改善後の初春型と同等としたが、魚雷発射管は4連装2基8射線とした。 航続力は18ノットで4,000浬と前級の14ノット時の値を維持したが、速力(34ノット)とともに、用兵側の満足は得られなかった。
白露型の兵装、速力、航続力では不十分であると判断され、次の朝潮型では1937年(昭和12年)以降の条約破棄を前提に、基準排水量を1,961トンにまで増大し、速力35ノット、航続力18ノットで4,000浬、12.7cm連装砲3基、魚雷発射管は4連装2基の計画とした。 計画中の1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等により、基準排水量は2,000トンとなった。 朝潮型は兵装面では吹雪型(特型)に匹敵し、復原性能と船体強度に関しても十分なものであったが、速力と航続力において性能不足が指摘されていた。
朝潮型の次に計画された陽炎型は、速力と航続力の増大を望まれたが、艦型が過大とならないよう、速力を35ノットに抑え、航続力を18ノットで5,000浬とした。 本型の艦型は、朝潮型とほぼ同等であるが、友鶴事件および第四艦隊事件の教訓を始めから織り込んだ新設計であった。 兵装は朝潮型と同等としたが、魚雷に関しては新造時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した。 本型の完成により、艦隊型大型駆逐艦の航続力に対する要求は達成され、次級の夕雲型とともに開戦時から中盤までの主力駆逐艦として活躍した。
「天津風」は開戦時には、第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属し、レガスビー攻略作戦を支援、引き続いてダバオ攻略作戦に参加した。 翌1942年(昭和17年)初頭からメナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に従事、2月25日にはスラバヤ沖海戦に参加した。 6月のミッドウェー作戦には攻略部隊の護衛部隊として参加した。 8月にガダルカナル戦が始まると「天津風」はソロモン方面へ進出、第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。 11月12日の第三次ソロモン海戦では第二缶室左舷に被弾、浸水のため左舷に14度傾斜した。 船体主部の損傷はそれだけで、近距離からの平射弾道の小口径弾は上部構造物を貫通したものが大部分であった。 しかしながら缶室の損傷で戦闘能力は低下し、また戦死者45名、負傷者31名を出した。 1943年(昭和18年)2月、修理なった「天津風」はトラックへ鈴谷を護衛、4月にはハンサ、ウエワク輸送に従事した。 8月に呉に帰港し整備を受け、再びトラックへ進出、以降はトラックを中心に船団護衛に従事した。
1944年(昭和19年)1月11日、航空母艦「千歳」および駆逐艦「雪風」と共に「ヒ三一船団」を護衛し門司を出港、シンガポールに向った。 1月16日南シナ海でアメリカ潜水艦「レッドフィン(Redfin)」の雷撃を受け大破。 左舷1番煙突直下に魚雷1本が命中、荒天のため前後に船体切断し、艦橋を含む前部船体を喪失、航行不能となり漂流を始めた。 漂流8日目の23日に一式陸上攻撃機に発見され駆逐艦「朝顔」に曳航され、30日にサイゴンに入港した。 「天津風」は11月8日までサイゴンで応急修理に従事した
11月15日シンガポールへ回航され、仮艦首の装着、仮設艦橋と前部マストの設置が実施された。 1945年(昭和20年)3月19日、「ヒ88J船団」を護衛してシンガポールを出港、内地に向かった。 途中、アメリカ陸軍機の空襲、潜水艦の襲撃により「ヒ88J船団」は全滅したが、「天津風」は4月2日、香港に入港した。 4日、新たに編成された「ホモ〇三船団」を護衛し、門司に向けて香港を出港した。 6日、厦門沖(北緯23度55分、東経117度40分)でアメリカ陸軍機の爆撃を受け、厦門沖合、青嶼の230度、3000mで擱座、艦としての機能回復は不可能と判断された。 使用可能な物件の揚陸後、艦内の要所8箇所に爆雷を仕掛け、10日の日没後爆破処分された。(2)(3)(4)(5)
艦名は気象。 天を吹く風の意。(6) 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ (僧正遍昭)
新造時 | 1945年(昭和20年)2月 応急修理完了時 | |
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艦種 | 一等駆逐艦 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 | |
基準排水量 ※1 | 2,000トン | |
公試排水量 ※2 | 2,500トン | |
垂線間長 | 111.00m | |
水線長 | 116.20m | 72.4m(第1煙突より前の船体を喪失) |
全長 | 118.5m | |
水線最大幅 | 10.80m | |
喫水 | 3.76m | |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)3基 | 2基使用可能 |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン2基 | |
推進器軸 | 2軸 | |
出力 | 52,000馬力 | |
速力 | 35.0ノット | 20ノット |
燃料 | 重油:622トン | |
航続力 | 18ノットで5,000浬 | |
兵装 | 50口径三年式12.7cm連装砲C型3基 九六式25mm連装機銃2基 61cm九二式4連装発射管二型2基 九三式魚雷16本 | 50口径三年式12.7cm連装砲C型2基 九六式25mm3連装機銃1基 九六式25mm単装機銃2基 九三式13mm単装機銃4基 61cm九二式4連装発射管二型1基 |
乗員 | 239名 | 200名 |
その他 | 1945年(昭和20年)4月4日、香港で被爆着底した海防艦満珠より25mm単装機銃2基および13mm単装機銃1基を移設。 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1939年(昭和14年)2月14日 | 舞鶴海軍工廠において起工。 |
1939年(昭和14年)10月19日 | 進水。 |
1940年(昭和15年)10月26日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 第十六駆逐隊に編入。 |
1941年(昭和16年)12月6日 | パラオ発。 レガスビー攻略作戦支援。 |
1941年(昭和16年)12月17日 | パラオ発。 ダバオ攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)1月9日 | ダバオ発。 メナド攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)1月21日 | バンカ泊地発。 ケンダリー攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)1月28日 | バンカ泊地発。 アンボン攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)2月17日 | アンボン発。 クーパン攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)2月25日 | マカッサル発。 スラバヤ沖海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)3月29日 | バンダム発。 クリスマス島攻略作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)5月3日 | 呉着。 修理。 |
1942年(昭和17年)5月21日 | 呉発。 |
1942年(昭和17年)5月28日 | サイパン発。 ミッドウェー作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月13日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)6月21日 | 横須賀着。 |
1942年(昭和17年)8月16日 | 呉発。 |
1942年(昭和17年)8月24日 | 第二次ソロモン海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)10月26日 | 南太平洋海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)10月30日 | トラック着。 |
1942年(昭和17年)11月7日 | トラック発。 第三次ソロモン海戦に参加。 |
1942年(昭和17年)12月1日 | 呉着。 修理。 |
1943年(昭和18年)1月26日 | 修理完成。 |
1943年(昭和18年)2月4日 | 呉発。 トラックへ鈴谷を護衛。 |
1943年(昭和18年)2月10日 | トラック着。 |
1943年(昭和18年)4月6日 | パラオ発。 ハンサ、ウエワク輸送に従事。 |
1943年(昭和18年)8月1日 | 呉着。 修理。 |
1943年(昭和18年)8月16日 | 呉発。 |
1943年(昭和18年)8月20日 | トラック着。 船団護衛に従事。 |
1943年(昭和18年)12月14日 | 横須賀着。 |
1943年(昭和18年)12月19日 | 呉に回航。 |
1944年(昭和19年)1月11日 | 門司発。 シンガポールへ船団護衛。 |
1944年(昭和19年)1月16日 | 南支那海で、アメリカ潜水艦「レッドフィン(Redfin)」の雷撃を受け大破。 |
1944年(昭和19年)1月30日 | サイゴン着。 仮修理(11月8日まで)。 |
1944年(昭和19年)11月8日 | サイゴン発。 |
1944年(昭和19年)11月15日 | シンガポール着。 修理。 |
1945年(昭和20年)3月9日 | シンガポール発。 内地へ船団護衛。 |
1945年(昭和20年)4月6日 | 厦門沖(北緯23度55分、東経117度40分)でアメリカ陸軍機の爆撃を受け、厦門沖合、青嶼の230度、3000mで擱座。 |
1945年(昭和20年)4月10日 | 放棄。 爆破処分。 |
1945年(昭和20年)8月10日 | 除籍。 |
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