1984年(昭和59年)6月3日建立。 合祀者698柱。(1)
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二等巡洋艦「三隈」完成時
「三隈」は最上型巡洋艦の2番艦である。 最上型はロンドン海軍軍縮条約下で建造されたが、このとき日本は重巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径15.5cm(6.1インチ)超、20.3cm(8インチ)以下)の保有枠を使い切っており、備砲口径15.5cmの軽巡洋艦として建造し、有事の際には20.3cm砲に換装する計画とした。 しかしながら、軽巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径12.7cm(5インチ)超、15.5cm(6.1インチ)以下)の保有枠を使っても単艦排水量を8,500トンとせざるを得ず、きわめて無理のある設計となった。
建造中に友鶴事件が発生したため、艦橋の小型化、バラスト搭載などの重心低下のための改正が実施されたが、1番艦「最上」が公試運転に入ると他の欠陥が露呈された。 船体振動により推進器付近の外板および肋材に亀裂が発生、艦首外板に皺が発生、3番砲塔の旋回困難などの事故が起こった。 これに対して船体の補強が実施されたため新造時の基準排水量は11,200トンに増加した。 さらに就役直後の1935年(昭和10年)9月に「最上」とともに、第四艦隊事件に遭遇した。 他艦に比べて「最上」と「三隈」の損害は軽かったが、「最上」では艦首外板にふたたび皺が生じた。 このため、「三隈」に対する性能改善工事が1936年(昭和11年)4月〜1937年(昭和12年)10月にかけて三菱長崎造船所で実施された。 ロンドン海軍軍縮条約破棄後、計画通りに20.3cm砲に換装されることとなり、1939年(昭和14年)6月〜12月に横須賀工廠で施工された。 この状態で開戦を迎えたが、ミッドウェー海戦で「最上」と衝突後、アメリカ軍機の攻撃を受け戦没した。(2)(3)
艦名は河川名。 三隈川は九州北部を流れる筑後川の大分県日田市付近での呼び名である。 筑後川は、その源を熊本県阿蘇郡瀬の本高原に発し、高峻な山岳地帯を流下し、日田市において、くじゅう連山から流れる玖珠川と合流する。 玖珠川合流後は日田盆地を貫流し、筑後川(三隈川)、隈川及び庄手川の3つの河川に分流する。(4)(5)
新造時 | 1939年主砲換装後 | |
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艦種 | 二等巡洋艦 | → |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 | |
基準排水量 ※1 | 8,500トン(計画) | 12,100トン |
公試排水量 ※2 | 11,200トン | 13,887トン |
垂線間長 | 189.0m | → |
水線長 | 197.0m | 198.3m |
水線最大幅 | 18.00m | 19.15m |
水線下最大幅 | 18.22m | 20.51m |
喫水 | 6.15m | 6.10m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基 | → |
主機 | 艦本式オール・ギヤード・タービン4基 | → |
推進軸 | 4軸 | → |
出力 | 152,000馬力 | → |
速力 | 35.96ノット(公試) | 35.0ノット(計画) |
燃料 | 重油:2,280トン | 重油:2,215トン |
航続力 | 14ノットで8,000浬 | → |
装甲 | 水線100mm、甲板35mm | → |
兵装 | 60口径三年式15.5cm3連装砲5基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九三式13mm連装機銃2基 九〇式61cm3連装発射管一型4基 九〇式魚雷24本 | 50口径三年式二号20cm連装砲5基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm3連装機銃4基 九三式13mm連装機銃2基 九〇式61cm3連装発射管一型4基 九三式魚雷18本 |
射出機 | 呉式二号五型2基 | 呉式二号五型2基 |
航空機 | 水上偵察機3機(定数) | 水上偵察機3機(定数) |
乗員 | 930名 | |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1931年(昭和6年)12月24日 | 三菱重工業長崎造船所において起工。 |
1934年(昭和9年)5月31日 | 進水。 |
1935年(昭和10年)8月29日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 第一予備艦となる。 |
1935年(昭和10年)10月1日 | 舵取り装置研究資料比較試験をおこなう。 |
1935年(昭和10年)11月15日 | 第二予備艦となる。 |
1935年(昭和10年)11月30日 | 呉工廠に入渠。 |
1936年(昭和11年)2月5日 | 呉工廠を出渠。 |
1936年(昭和11年)4月1日 | 第三予備艦となる。 |
1937年(昭和12年)5月7日 | 呉工廠に入渠。 |
1937年(昭和12年)10月31日 | 呉工廠を出渠。 第一予備艦となる。 |
1937年(昭和12年)12月1日 | 第二艦隊第七戦隊に編入。 |
1938年(昭和13年)4月9日 | 寺島水道発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)4月14日 | 高雄着。 |
1938年(昭和13年)10月17日 | 寺島水道発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)10月14日 | 高雄着。 |
1939年(昭和14年)3月21日 | 佐世保発。 北支方面行動。 |
1939年(昭和14年)4月3日 | 有明湾着。 |
1939年(昭和14年)5月20日 | 第三予備艦となる。 |
1939年(昭和14年)11月15日 | 特別役務艦となり、15.5cm3連装砲塔から20.3cm連装砲塔への換装に着手。 |
1940年(昭和15年)5月1日 | 第二艦隊第七戦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)1月23日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)1月29日 | 海南島三亜着。 対仏印威力顕示作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)2月18日 | 三亜発。 |
1941年(昭和16年)2月20日 | 馬公着。 |
1941年(昭和16年)2月21日 | 馬公発。 |
1941年(昭和16年)2月23日 | 中城湾着。 |
1941年(昭和16年)2月26日 | 中城湾発。 |
1941年(昭和16年)3月1日 | 三都澳着。 |
1941年(昭和16年)3月2日 | 三都澳発。 |
1941年(昭和16年)3月3日 | 高雄着。 |
1941年(昭和16年)3月7日 | 高雄発。 |
1941年(昭和16年)3月11日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)3月28日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)3月29日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)4月11日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)4月17日 | 呉工廠を出渠。 |
1941年(昭和16年)4月24日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)4月28日 | 三河湾着。 |
1941年(昭和16年)5月17日 | 三河湾発。 同日、伊勢湾着。 |
1941年(昭和16年)5月21日 | 伊勢湾発。 |
1941年(昭和16年)5月22日 | 三河湾着。 |
1941年(昭和16年)6月3日 | 三河湾発。 |
1941年(昭和16年)6月6日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)6月16日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)6月17日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)6月22日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)6月23日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)6月27日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)6月30日 | 横須賀着。 |
1941年(昭和16年)7月6日 | 横須賀発。 同日、木更津沖着。 |
1941年(昭和16年)7月8日 | 木更津沖発。 |
1941年(昭和16年)7月12日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)7月16日 | 呉発。 南部仏印進駐作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)7月22日 | 三亜着。 |
1941年(昭和16年)7月25日 | 三亜発。 陸軍船団を護衛してサイゴン沖に向かう。 |
1941年(昭和16年)7月31日 | サイゴン沖発。 |
1941年(昭和16年)8月7日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)8月19日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)8月20日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)9月8日 | 呉工廠に入渠。 |
1941年(昭和16年)9月13日 | 呉工廠を出渠。 |
1941年(昭和16年)9月16日 | 呉発。 同日、室積沖着。 |
1941年(昭和16年)10月14日 | 室積沖発。 |
1941年(昭和16年)10月15日 | 佐伯湾着。 |
1941年(昭和16年)10月19日 | 佐伯湾発。 |
1941年(昭和16年)10月20日 | 別府着。 |
1941年(昭和16年)10月23日 | 別府発。 同日、宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)11月1日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)11月2日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)11月9日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)11月10日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)11月12日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)11月13日 | 柱島着。 |
1941年(昭和16年)11月15日 | 柱島発。 |
1941年(昭和16年)11月16日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)11月20日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)11月26日 | 三亜に進出。 |
1941年(昭和16年)12月4日 | 三亜発。 マレー東岸へ輸送船団を護衛。 |
1941年(昭和16年)12月8日 | マレー半島第一次上陸作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)12月10日 | プロコンドル着。 警戒停泊。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | プロコンドル発。 南方海面を行動。 |
1941年(昭和16年)12月14日 | マレー半島第二次上陸作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)12月19日 | マレー半島沖からカムラン湾に回航。 |
1941年(昭和16年)12月20日 | カムラン湾着。 |
1941年(昭和16年)12月22日 | カムラン湾発。 クチン攻略作戦を支援。 |
1941年(昭和16年)12月23日 | クチン泊地着。 |
1941年(昭和16年)12月27日 | クチン泊地発。 カムラン湾に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月29日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)1月16日 | シンガポール在泊中のイギリス艦隊脱出の報により、カムラン湾発。 |
1942年(昭和17年)1月19日 | カムラン湾帰着。 |
1942年(昭和17年)1月23日 | カムラン湾発。 エンドウ上陸作戦を支援。 |
1942年(昭和17年)1月24日 | サンジャック入泊。 待機。 |
1942年(昭和17年)1月27日 | サンジャック発。 |
1942年(昭和17年)1月28日 | カムラン湾着。 |
1942年(昭和17年)2月10日 | カムラン湾発。 バンカ、パレンバン上陸作戦を支援。 |
1942年(昭和17年)2月16日 | ジャワ攻略作戦のため、主隊と分離し、補給のためアナンバスに回航。 |
1942年(昭和17年)2月17日 | アナンバス着。 |
1942年(昭和17年)2月24日 | ジャワ攻略作戦第三護衛隊支援隊として出撃。 |
1942年(昭和17年)3月1日 | バタビア沖海戦に参加。 最上と共同でアメリカ重巡洋艦ヒューストン、オーストラリア軽巡洋艦パースを撃沈。 |
1942年(昭和17年)3月2日 | ジャワ島北方海面の行動警戒に従事。 |
1942年(昭和17年)3月4日 | シンガポールに向かう。 |
1942年(昭和17年)3月5日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)3月9日 | シンガポール発。 北部スマトラ作戦支援。 |
1942年(昭和17年)3月14日 | バッパハト泊地仮泊。 |
1942年(昭和17年)3月15日 | カビエン着。 |
1942年(昭和17年)3月15日 | シンガポール着。 |
1942年(昭和17年)3月20日 | シンガポール発。 アンダマン、ビルマ作戦支援。 |
1942年(昭和17年)3月23日 | アンダマン東方海面に到達し、機宜行動。 |
1942年(昭和17年)3月24日 | アンダマン北東海面で、機宜行動。 |
1942年(昭和17年)3月26日 | アンダマン作戦の一段落により、メルギー入港。 |
1942年(昭和17年)4月1日 | メルギー発。 ベンガル湾機動作戦に従事。 |
1942年(昭和17年)4月6日 | 最上、天龍と共同で、ベンガル湾において商船5隻を撃沈。 |
1942年(昭和17年)4月11日 | シンガポール着。 警泊、補給。 |
1942年(昭和17年)4月13日 | シンガポール発。 潜水艦掃討。 |
1942年(昭和17年)4月16日 | カムラン湾仮泊。 同日、出港し内地に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月22日 | 呉着。 訓練、整備作業。 |
1942年(昭和17年)5月4日 | 呉工廠に入渠。 |
1942年(昭和17年)5月12日 | 呉工廠を出渠。 |
1942年(昭和17年)5月15日 | 訓練のため呉発。 同日、柱島着。 警泊、整備作業。 |
1942年(昭和17年)5月18日 | 訓練のため伊予灘に向けて柱島発。 |
1942年(昭和17年)5月19日 | 柱島帰投。 同日、呉に回航。 |
1942年(昭和17年)5月20日 | 呉警泊、出撃準備。 ミッドウェー攻略部隊支援隊となる。 |
1942年(昭和17年)5月21日 | 呉発。 |
1942年(昭和17年)5月22日 | 柱島発。 グアムに向かう。 |
1942年(昭和17年)5月26日 | グアム島アブラ着。 |
1942年(昭和17年)5月28日 | アブラ発。 ミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)5月29日 | テニアン島南東で船団と合同。 |
1942年(昭和17年)6月5日 | 最上と衝突小破。 |
1942年(昭和17年)6月7日 | ミッドウェー島北西600浬で被爆沈没。 |
1942年(昭和17年)8月10日 | 除籍 |
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